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明滅

 黄色い信号が明滅している、それだけの交差点をいくつも通り過ぎる。取り締まるべき車の流れなどとうにない。その下を早足で行く私にはまるで興味を示さない。私とて、その明滅に日中ほどの意味を認めないで、ただ足音だけを鳴らして過ぎる。

 もうどれほど歩いた。先ほどまで身体を駆け巡っていたアルコールが汗と滲み、それをもう随分夏の夜に振り落としてきた。普段は車内から見るばかりの街路樹や花を、これほどゆっくりと眺めたのは久しぶりだ。それらは日の下で見るのとは違う艶やかさを保っていた。淡い街灯の光が何でもない景色を情緒的にレタッチする。酩酊と暗闇がもたらす美しさが、脳内の歪な快楽を加速させていく。
 渋滞気味な汗腺を前に行き場を失った熱が、激しさを増す脈に乗って身体中を駆け巡る。温められたものの常として、それらは高い場所を目指す。そうして集まったものが私の脳内を白く焼いていた。頭部が白熱球にすげ替えられた自分の姿を想像する。フィラメントが焼き切れそうな、そういうものを想像した。

 視界が歪む。ふくらはぎのあたりが妙に痺れている。足首に力が入らず、上げ下ろしする度に地面をうまく捉えられなくなっていく。このふらつく足取りのまま、穏便に帰宅できるとは思えなかった。
 耐えられなくなって、自販機に駆け寄る。涼やかな青いラベルが目に付き、ポカリスエットを購入した。幼少の頃から感冒気味だった私にとって、その青は健康をもたらす青だ。それを片手に再び早足に戻った。
 近頃の自販機は、夏の夜に羽虫の死骸を溜めこまない。小銭や飲み物の取り出し口に、おっかなびっくり手を伸ばすこともなくなった。かつて足元に散らばっていた無数の蛾や蜻蛉たちはもう、この光に憧れなくなってしまったのだろうか。LEDが虫たちを遠ざけ、独り小綺麗な立ちんぼになった自販機は深夜に何を思うのだろう。ここで死ねなくなった彼らは、一体どうするのだろう。そんなことを考えながら、買ったばかりの綺麗なペットボトルを、蓋も開けないままにして歩いていた。

 突然、向こうの方で何かが閃く。私を照射するその光線を、夜闇が歪めてフレアさせる。見つめているとその中から一台の車が現れた。それをやり過ごすために立ち止まり、何となく手持ち無沙汰で左手に持ったペットボトルを見る。目の高さに掲げると、中の液体が薄く発光していることに気がついた。黄色がかったその仄かな光は、私を撫でて曲がっていったヘッドライトが残したものだった。
 何かの手違いで宿ってしまったその、ぼうっとした光は何故かいつまでも消えない。瞬きの内に消えてしまいそうな幻惑を、そのまま消えてしまうのは惜しいと思ってしまった。これを、今のうちに飲み干してしまったら、どうなるだろう。そう思った瞬間には、もうキャップに指をかけていた。鼻を近づけると中から懐かしい香りがする。それは熱病の床に見る夢のようなこの夏の夜と、とても調和していた。
 傾けた液体が喉を過ぎる。あの仄かな光が、ガラスを滑る時の雨垂れのように、食道や腸の壁に少しずつ痕跡を残しながら、やがて全身に染み渡っていくのを想像する。
 今ここで全部は飲んでしまわない。とても素敵なことを思いついた。これからそれをやるのだ、そう思うと夜が透き通っていくようで、頭に詰まっていた重たい熱はいつの間にか抜けていた。

 それから私は夜の辻に待ちぼうけをする街灯だとか、もう何度も越えてきた黄や赤の明滅、夜更かしな窓明かりだとかを一々液体に取り込んで、時々の微妙な美しさを放つそれを、少しずつ飲んだ。その一口で、渇き以上の何かが満たされていくのを感じる。夜の下のみで生きている美しさを、なるべくたくさん探して飲んだ。血管を通って身体の隅まで光が巡る。その指先で描くものは、きっと美しくなるような気がした。
 残ったあと一口分に何を灯そう。川面にちらつく銀色を飲み干して、考える。見上げると空の黒が少し褪せている。夜明けが迫ってきていた。太陽が出てくる前に家に帰ろうと思っていた。朝日に照らされたら、この身体に染み込んだ美しい光が全て掻き消されてしまうような気がしていたのだ。
 見えない朝日が夜をゆっくり、しかし確実に希釈してゆく。そしてある瞬間には一気に塗り替えされてしまうのだろう。ああ口惜しい。そう思った時ふと、このまま上流に沿って少し行けば、坂の上に大きめの溜池があることを思い出した。東に向けて空が開けていて、風のよく抜ける場所だ。自然と足がそちらへ向いた。仕事に遅れる言い訳も休む理由も思いつかないが、もう足は止められなかった。

 坂の途中、家があった。入口に大きな鉄柵をしてある西洋建築風のそれは僅かな灯さえ宿さず、一塊の暗闇となって存在感を放っていた。私はその蔦まみれな門の脇に聳える誘蛾灯に興味が湧いた。川沿いだから虫が多いのだろう。奇妙な引力を持つ青白い光が、蠟燭の揺らめきのようなリズムで明滅し、それをデブリのように、大小様々な虫たちが取り巻いている。その背に負う人家に、庇うべき暮らしはもう無い。それでも、残された一筋の、黒斑に侵された痛々しい光で虫たちを惹きつけては片端から焼き、容赦なく地上へと落とす。光るために光るもの、それにのまれるために飛ぶもの。美しい連鎖を前に、私は立ち尽くした。
 ああこれだ、これしかない。興奮のあまり震える手をゆっくりと掲げる。開きすぎた瞳が渇いて表面に痛みが走る。それでもまばたきは出来ない。高く翳した液体が皆殺し色に光る。キャップを捻ろうとする恍惚の指先に一匹の蛾がとまった。それが一向に飛び立たないのを見て、もう片方の手を容器から放し、人差し指でその頭を小突いた。なお動かないその身体を、軽くピンと弾いた。吹き飛ばされた蛾は、フラフラとまたイカロスの群れに混じる。私はその隙に素早く栓を開けて口をつけた。仰向いた鼻先を光が滑って、喉を通っていく。身体の内に満ちた光で、今なら全て焼き尽くせるような気がした。
 今すぐ池の畔に行こうと思って、歩き出す。日の出には充分に間に合う距離だ。そこで太陽を待ち受けよう。どうしようもなく叫びたい気分だった。開けた空を自分のためのステージのように自慢気に上ってくる太陽の、その出鼻に一撃お見舞いしたかった。その叫びにのせた、夏の夜の美しい光たちの束をぶつけて撃墜してやりたいと思った。そして、それに魅せられて虫たちがたくさん死ねばいいと思った。もう自販機にそれがやれないなら、私がやる。
 勾配を増す道を行く、私の身体はまた熱で満ちていた。一度だけ振り返って見た誘蛾灯は、地上に最も近い恒星のようだと思った。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。