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忍び泣き

 その日は大きめの低気圧がやって来ていて、予報通り空は一日中暗い雲に覆われていた。数時間に一度、雨風が窓を強く揺らしては去っていくのを、私はずっと布団の中で聞いていた。
 昔から空模様と体調が比例してしまう体質で、せっかくの休日に何も出来ないまま。それもあと四時間ほどで終わってしまう、という頃になってようやく布団から抜け出し、せめて空っぽの冷蔵庫をどうにかしなければ、と遅めの買い出しに出かけることにした。

 やけに光の通らない夜だ。見渡す限り人家の無い、こんもりとした黒い塊のような林が代わる代わる両脇に現れるばかりの、暗い田舎道を走る。降り続いている小雨のせいか、それを産み落としている暗雲のせいか。普段は全てを暴き出すような無遠慮さを持つハイビームの光が、今日は十メートルほど先の辺りで元気をなくしてしまう。
 暗い、という感覚ではない。粘性の高い闇が常に私を取り囲んで、視界から外れたものを片っ端から食べてしまうような。その先が見えないというよりは、その先が無い、という感覚に近かった。同じように、眼前の道が光に照らされて見えるようになる、ではなく、今その瞬間に創造されたものが目の前に出現してきているかのような、奇妙な感覚に囚われていた。
 事故が起きるのは、きっとこういう時だろう。やはり体調の悪い日に無理をするものではない。食料を備蓄していなかったことを後悔した。インスタント麺はあったが、何かさっぱりしたものが欲しかった。サラダを買って食べようと思っていた。野菜でビタミンを採れば、それでこの不調が少しはマシになる気がしたのだ。
 暗いとはいえ、道幅は広い。起伏のある山道であり、路面も濡れてはいるが、余程スピードを出さなければ問題はない。何よりこの道は慣れている。滅多にないことだが、飛び出してくる鼬や鹿にさえ気をつけていれば、交通量の多い道路よりもずっと運転は楽だった。

 少し雨脚が強まってきた。ワイパーを一段階早く動かし、その具合を見ていると、空の端が一瞬白んだ。雷か、呟きながら窓を開けて、しばらく耳を澄ましたが音は聞こえない。雷雲が近いなら、雨も近い。こんな時に、豪雨に巻き込まれては面倒だ、そう思って先ほど光った辺りに目を向けた時だった。
 それは私の視線のすぐ先、ちょうど山の切れ目にあたる開けた空に、眩い金色が閃いた。闇の天蓋を貫いた大きな稲妻が一本、柔らかな曲線を描きながら直下を目指す。その根元からは幾筋もの細い光が、流れるように枝垂れた。それらはまるで紗のような質感で、気品のある金色をしていた。ただ綺羅を纏っただけのようなものではなく、気高さや神秘性を含んだ、本物の気品を感じさせる美しい金色だ。それが一塊の黒となっていた山際まで靡き、その凹凸の一々を彫り上げ克明なコントラストを生む。降り注ぐ雨粒の全てを空間に張り付け、その輪郭を繊細に描き出す。
 まるで女神のようだ。高潔でしなやかな身体、一面に広がる細く滑らかで美しい髪。先ほどまでの暗闇を無音のうちに振り払い、人知の及ばぬ芸術を一瞬で作り上げる。そして、それら全てを何もなかったかのように、再び暗幕で包み隠してしまった。私だけを置いて。
 無音といえば、これほど近い距離でありながらまるで音がしない。聞こえるのは雨音、濡れた路面をタイヤが弾く音ばかり。あの地を揺るがすような雷鳴は、いつまで経っても聞こえてこない。だが何か、雷鳴ではない低い響きがどこからか聞こえてくる。より注意深く耳を澄ました。一定のリズムを刻む、地鳴りのような音。ああ、これは心音だ。それを自覚した時、身体の深いところから熱が湧き上がってくるのを感じる。
 また向こうの、山の裏で閃いた。私の目は無意識に女神の姿を探す。あの金色が、網膜から離れない。また、もう少し遠くの山の影が光った。覚えず、私はそちらに向けてハンドルを切る。あの雷の袂へ、どうしても行きたい。そういう考えが文字を伴って脳を支配した。私は、あの女神に魅せられてしまっていた。

 神出鬼没という言葉は、今日この時のため作られたに違いない。ここが袂かと思ったら、もう向こうの山の影に隠れている。田舎道は、一本入ってしまうと入り組んでいる。さらに夜になると明かりもないので、もうほんの少し先も見えないのだ。辿り着くのにも苦労するうえ、あちらはひょいひょいと山を、飛び石でも渡るようにして行くのだ。
 必ずや袂へと思っていた気持ちが衰え、いい年をして何をしているのかと諦めようとすると、すぐ近くで光ったりする。それでいていつも、絶妙に姿の見えない位置にいる。何と駆け引きの達者なことか。弄ばれているような気持ちになりながら、それでもやはり後を追ってしまうのだった。
 それにしても音のしない雷だ。雨風はそれほど激しくなく、他に邪魔をするようなものはない。聞き逃さぬよう窓を開けているにも関わらず、雷鳴は一度も聞こえてこなかった。随分と奥ゆかしくて面白いことだと思う一方、探すのに不便で困るという気持ちもあった。ただでさえ暗く、山谷で見通しの悪い場所を行くので、せめて声でも聞けたらいいものをと、勝手なことを思っていた。

 どれほど走ったのか。誘われるまま闇雲に走ったせいで、居場所もはっきりとはわからない。買い物に出るだけのことと思っていたから、携帯も持たなかった。朝からろくに食事をしなかったことを悔やんだ。空腹と頭痛が私を苛むが、ここまでくると意地も出てくる。先ほどからもう随分登ってきていた。これほどの高さのある山は、近くにそれほどない。雷神を山の頂上付近まで追い詰めている。そう思うと、あと少し、とアクセルを踏む足に力が入る。
 頂上に迫るほど、道は細く険しくなっていく。九十九になった道の端は舗装が欠けており、ボロボロに錆びた頼りないガードレールの先は木々が鬱蒼としている。その無数に交錯する梢の間から、怖気のする闇がこちらを覗く。油断していると今にもその腕に絡めとられてしまいそうな気がする。ここを歩きたくはないな、そう思っていると目の前で道が二又に分かれた。
 一つは道なり、今と同じような道が続く。どうもその先は下りになっているらしく、どこかの里へ下りる道だろう。切り返しの難しい道幅のため、ここが潮時としてこのまま進んで帰るのも悪くはないように思われた。
 もう一つは、見るにこれまでよりも更に悪路だ。舗装もなく、僅かに轍らしきものがあるばかりで藪まみれ。幅も狭く落石も見える、この車では行けないだろう。だが、これは上へ続いている。
 車を止めて逡巡する。車内から見る二つの道はどちらも濃い闇を湛えていて、暗く巨大な双眸にじっと睨まれているような気持ちがする。いつでも丸呑みにされてしまいそうだ。このヘッドライトを消し、車を出て、あの草むらの中を行くなど考えられない。しかしせっかくここまで来たのだ。
 考えていると、車体が大きな音を立てて催促する。慌ててエンジンを切った。この闇の懐で不用意に声をあげて欲しくなかった。そんな自分の思考に気がつき、やはり車は降りられないなとため息をついた。
 その時だ。頭上で再びあの光が躍った。あの高貴な光が空を走り、本能を脅かすようなあの闇を一瞬にして切り裂いてしまったのだ。木の葉の隙間を駆け抜けた光が、夜に木陰を生み出した。その瞬間、まさに私は電流が走ったように車を飛び出した。この上にいる。その確信が私を藪の中へ駆り立てた。

 細かい雨がさらさらと鳴り、濡れながら藪を漕いでいると、まるで水中にいるような気分になる。時折、足を石にとられて沈みそうになる。倒れる時の、私の身体が草々を踏み倒す音は水面を割る音によく似ていた。溺れてしまわないよう必死に腕を掻いて浮上する。息継ぎをする口に雫が降り注ぐ。喘ぐように見上げる度にその先の空が光る。水底から見る揺らぎのような美しい光を吸って、また前に進む。
 絶え絶えになりながらも、足を止められない。私は誘われているのだろうか。向こう岸には何が待っているのだろう。そんな思考が泡のように湧いては消える。それを繰り返しながら、私はやっと藪を抜けた。
 目の前に現れたそれが何であるか、すぐにはわからなかった。跨いで通り過ぎてから、朽ち果てたそれが鳥居であることに気づいた。荒れ果てた境内は中央に敷石がしてあり、そこだけが藪に侵されていない。その窪みに立つと、目の前に崩れた社があった。往時でも私の背丈ほどしかなかったであろう小さな社は土台が歪み、落ちた屋根の下から砕けた壁やら戸がはみ出している。岩壁と崖に囲まれた狭い境内の奥には、一本の古木が聳えていた。
 古木の巨大な影の中に白く光るものがある。一枚の紙垂だ。それは空が瞬くのに合わせて強い光を放つ。その輝きが、この境内の様子がわかるくらいの、ぼんやりとした明るさをもたらしていた。相変わらず雷鳴が聞こえないことが気になって空を見上げる。
 黒雲が、あの高貴な雷光を妨げる。絶えず降り続くさめざめとした雫が頬を伝い、私はそこではっとした。確かめようと神木を見る。雨風に擦り切れた注連縄は樹皮とほとんど同化している。輝く紙垂の両隣には、事切れた仲間たちが力なくぶら下がっていた。毛羽立った幹は死の匂いを放ち、虚しく掲げられた枝には一枚の葉もない。それで、押し黙ったままの理由も、この雨の勢いにも、全てに納得がいった。この雨は、主と友を失った、死を待つばかりの孤独な紙垂の忍び泣きだ。あの高貴な光は、稲妻の貌を与えられた神聖なるものが手向けに送る、最期の舞だ。

 そうなんだろう、私の問いかけに初めて雷鳴が応える。そしてきっと、これが最後のやり取りだ。目の前の紙片から光がすうっと失われてゆく。地上から何かが、永遠に奪い取られるのを感じた。暗闇に落ちた境内には相変わらず雨の音が満ちている。私は看取るために呼ばれたのだ。
 神木から遠ざかり、振り返って、空を見上げる。それを待っていたかのように、幾筋もの閃光が黒雲を切り刻み、神木の上で一点に集中していく。一瞬の静寂、私の胸は跳ね上がる。その拍動が終わるのを待たずに、空が張り裂けたような音が響いて、神木が清流のように滑らかな、美しい一本の光に包まれた。髪を逆立てるほどの風圧が、周囲の藪を薙ぎ払う。
 光の余韻の中で、千切れた古い紙や砕けた木片が空に巻き上げられていくのが見えた。私はそれに手を振る。その手に紙片が飛び込んできた。それは輝くように白く、紗のように滑らかな手触りだった。私はそれをしばらく指の腹で撫でていた。いつの間にか雨は上がっていて、それを背に受けながら凪いだ藪の道を下って帰った。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。