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緑の波

「やあ、このようなところへ人が見えるとは」
 愛想の良い初老ほどの男が、いつの間にやら私の脇に立ってこちらを見ていた。いくら川の音がするとはいえ、歩く音が聞こえないほど夢中になっていたつもりはない。自然、向ける目線には警戒の色が混ざったろう。
「これは失礼した。物思いに耽っていて気がつかなかった。この辺りにお住まいの方かな」
 向き直って見ると、男は白髪の混じった皺の深い顔をしており、膝丈ほどもある長靴を履き、木綿製の上下を着て軍手をし、肩から大きめの手拭いを下げるというどこにも見られる一般的な農業従事者の出で立ちである。ただ頭に麦わらであるべきところが、編み笠な点は少し気になった。
「さて、そうだが。しかしあなた、随分間が悪い時に来られましたな」
 私が一歩後退ったことも、意に介した様子はない。いかにもな好々爺顔を相変わらずこちらに向けたまま、変わらぬ声音で不穏当なことを言う。
「間が悪い時、とは」
「今にも緑の津波が来る、ということです」
 緑の津波、その言葉を聞いて思わず男の背後に目が行く。川が万年をかけて深山を切り拓き出来上がった幽谷の里は、切り立った斜面を押し広げて石積をして作った平地に田畑をしていた。それらの背には天を衝くほどの大木が幾重にも聳え立ち、押し寄せる葛に飲み込まれた廃屋も奥の方にいくらか見える。田畑の殆どが人の踏み入られぬ叢と成り果てている。山の作り出す黒々とした影が人家の屋根を常に湿らせている。里を取り巻く木々の青々とした葉は盛んに泡立って今にも零れ落ちんとしており、まさに巨大な緑の波の、その波頭が崩れる寸前といった様相だ。
「なるほど、言い得て妙ですな」
「わかっておられんな。私は詩を詠んだわけではありませんぞ」
 男は愉快そうに笑う。私とてただ褒めたわけではない。この皮肉を介さない妙な男と、いつまでも無駄話をしているつもりはなかった。

「ところでご主人。この里の人をどこか一所に集めてはいただけまいか。私はあることをこの村に申し伝えに来たのだ」
「はあ、寄合所がございますがな。しかしそれは無駄というもの」
「無駄、とは。用件も聞かぬうちから何故そう仰せかな」
 怪訝な声色を作ってみても、この男には伝わらないようだ。人の願いを強い言葉で突き放しておきながら、相変わらず人の好さそうな顔をしている。
「あなたがどんな用で来られたとしても、同じように答えるしかないのでそう申すのです。先ほど申したように、ここはもう緑の底に沈んでしまう。これは例えて申すのではございませんぞ」
 男の意図がわからない。その表情のどこにも悪意は感じとれず、だましている様子ではない。このまま会話の舵取りを任せていたのではどこへ連れて行かれるやら分からない。私は名刺を取り出しながら用件を切り出すことにした。
「この地域には珍しい生態が残っているそうでしてね、私はそれを保護することを目的にここへやって来た次第で。ついてはこの里の方にもご協力を仰ぐべく説明会を開くつもりなので、その時にはご主人も来てください」
 そう言い残して去ろうとしたが足が動かない。おや、と思う間に目の前を木の葉がひらひらと次々舞い落ちる。それを追った視線の先、足元には無数の植物の蔓が道路を砕き、私の腰まで上ってきていた。
 動揺する私のことなど意にも介さず、男は朗々とした笑い声を上げた。山風のように太い響きが、男の身体の揺れに合わせて木霊する。
「保護とは面白いことを言うものだ。そう頼んだ生物がありましたかな」
「頼む、頼まないではない。このままでは絶滅してしまうというのだ」
「それの何がいけないというのか」
 大抵の場合、こうした田舎の住民は自然の喪失を好まない。それらを守ることを通して、何かを守ろうとしているように見える。しかし、この目の前の男はまるで無頓着のように見えて、だからこそ私は返す言葉に窮した。それでつい、まるで思ってもいない言葉に手が伸びた。
「何がとは、その、可哀想だとは思わないのか」
「可哀想とはなんだね。死ぬことがかね。ここらだけでも、日が昇り、落ちていくまでにわんさと産まれて死んでいくのだ。動植物がその一々を憐れんで暮らしていると思うかね」
「違う。種が滅んでしまうことが、だ」
「すると、何かね。虫けらが日に百死ぬよりも、ただ一死ぬだけの山椒魚の方が可哀想かね」
 この男は山椒魚の絶滅が近いことを知ってはいるようだ。つまり環境の保全にまるで無関心というわけでもないのだろう。では何故こうも非協力的な態度をとるのか。不審なのはそれだけではない。私を巻こうとする葛について、まるで気に留めていない点。そして先ほどから無軌道に落ち続けている葉が、男の周囲ではつむじのように回っていつまでも落ちない点。
 そもそもこの葉はどこから落ちてくるのか、そう思って見渡すと山際から碧空に向かって泡のように無数の緑の筋が立ち昇り、それぞれ一定の位置で雲を作っては里の方へゆっくりと流れてきている。それらは葉の雨を降らし、その下の人家が見る間に緑に濡れていく。

「この里の歴史を知っておられるかな」
「いや、存じ上げないが」
「なんでも遠い昔、都から落ちてきた貴種の末裔だそうで。爾来このような山深き地で必死に鍬を振るって開いてきた。鳥獣から作物を守り、大木に刃を突き立て細工をしてな。しかしその営みのか細さたるや。今に全てが緑の底よ」
「見てきたような物言いだ」
 男は編み笠を上げて翻り、山際を仰ぎ見た。その裾野の木々は黒々とするほど盛り上がり、しきりに枝葉を震わせている。
「この里が沈むように、不変のものなどない。興亡をもたらすものが人のみであるなどと言うのは思い上がりというもの」
 激しく裂けるような音がかしこで響く。それと同時に地を打つものが天から降り注ぐ。見上げた私の額で弾けたそれが、落ち葉の上を跳ねる。どうやら何かの実か種のようだ。
「やあ見なされ。始まりましたぞ」
 男の声に顔を上げる、遂に波頭が砕けた。それは波の花のように舞い上がってこちらへ流れてくる。その下を這うように、大きな葉を付けた低い草々が傾斜を波打ちながら下ってきた。その波間から腕を伸ばす枝葉はあっという間に耕地を覆う。葛が廃屋を絞め殺す悲痛な音を、吹き荒れる葉擦れが押し流す。先に私の額や地を打ち鳴らしていた礫たちは、敷き詰められた落葉の隙間からぐんぐん伸び、既に仰ぎ見るほどの高さにまでなって、その青さを誇っていた。
 もはや私の身体は蔓の依り代となって首の他の自由は効かない。空を枝葉が遮り、辺りは暗がりに沈んだ。木々の吐息がその闇を冷やし、私の体温をどんどん奪っていく。時々視界をチラつく光に見上げると、頭上を覆った緑が風に揺れている。その様は幼い頃、水底から見た景色によく似ていた。

 男が目の前に立っていた。この驚天動地のさなかにあっても顔色一つ変えておらず、相変わらず微笑を湛えている。しかし、もうそれを訝しむ気持ちはない。
「はあ、意外にも涼やかな表情をしておられますな。間が悪いと申したが、存外そうでもなかったようだ」
 男は相変わらず朗々と話す。その言う通り、悪い気分ではなかった。
「あなたの仰ることがよくわかった。なるほど、滅びはいつも悲壮感を伴うものではないのですな」
「然様。当人らの了解なく殊更哀れがるのは傲慢というもの。そら、御覧なされ。楽しそうにしておる」
 胸まで上ってくるのは山椒魚。その黒々とした目に鮮やかな緑が映り込み、光輝いて見えた。あるいは、私の瞳もそうであろう。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。