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誰か創作を止めてくれ

書かずにはいられない。

スイッチは突然入る。
自分でも予期せぬタイミングでぶわっと粟立つのだ。ああああまたか! 今かよ!! 来たら最後、うわーんと泣き言を漏らしながらPCを立ち上げるか筆記用具を取り出すしかなくなる。
私がこれをコントロールできた試しはない。暴走とも呼べる衝動が雪崩のように押し寄せるので、書くしかなくなる。書かないと潰される息ができなくなる。なんでなんですかなんなんですかこれ。

同じような人いませんか。これを飼いならしてる人いたら教えてください。

いつからなのかわからない。
物心ついたときには脳内に物語が常時5つほど同時進行していたし、一人っ子の私には良き遊び相手だった。
文字に異様な執着を見せたそうで、1歳でひらがなを書いていたというから、書き表せることについて滞ったことはなかった。
おもちゃを買い与えなくても、紙とえんぴつさえあれば満足する安上がりな子供だ。スーパーに売っている百枚綴りのらくがきちょう。あれを3×4の12マスに区切って12コマ物語を書き連ね、阿呆のように何冊も消費した。誰にも頼まれていないのに止まらなかった。

作者は私。読者も私。自家発電自家消費。
物語の世界に没頭するのはただただ楽しかった。

小学生になり、風向きが変わる。
宿題。己の意志とは無関係に、指示されればこなす一択の選択肢。文字の練習だの計算ドリルだのといった単純作業系は好きだったものの、唯一苦しめられたのが作文だ。
忘れもしない、小2の春。担任は私たち児童に毎週末の作文の宿題を課した。ぞっとしたのを覚えている。毎週だと?
嫌な予感はほどなくして的中した。
終わらないのだ。作文が。

担任は宿題を出すだけで、制限を設けなかった。
課題は毎回「週末の出来事」と決まっていたが、私にはどこからどこまでを抜き出して書けばいいのか見当もつかなかった。土曜の朝から日曜の夜までとなると、書けはするが止まらない。120字詰めの作文ノートが恐ろしい勢いで埋まっていく。10ページ書いても20ページ書いても終わりが見えない。大混乱だった。

とうとう切羽詰まって担任に打ち明けた。
「先生、先週の作文も、先々週の作文もまだ終わってないのに、今週末の作文なんてこれ以上無理」
執筆スピードが追い付かず、私は小2にして〆切に追われた。
担任は優しく「大丈夫」と答えた。
「あなたはいつも超大作だから、期限が遅れてもいいよ」

そうじゃないんだ。

小2の私はもどかしさを募らせる。上限を設けてほしいんだ。どこまで行けば止めてもいいのか教えてほしい。
「あとどれくらい書いたらいいの?」
足りない語彙で問うと、担任はやはりにっこり笑った。
「好きなだけ書いたらいいよ」

そうじゃないんだ!!

私は好きで作文を書いているのではない。宿題として課されるから従っているだけだ。小2の語彙では、どこからどこまでを書き出せばいいのか、判断できずに困っているのだと伝わらず、作文は行動記録と化した。
私が知りたいのは文章の削ぎ落とし方だった。あふれ出す脳内物語を書き留めるのとは違い、他人に指示されて書く文章の苦痛たるや。思いとは裏腹に、制限を与えられぬ作文は止まらない。
誰か私の右手を止めてくれ。
迫り来る〆切に怯え切に願った。

小6のとき、クラスで小説を書くのがはやった。ケータイ小説が流行した時期で、横書きの平易な文章は小難しい小説より取っつきやすかった。
クラスの子がノートに書いた物語をみんなで回し、夢中で読んだ。
この頃の私の一人遊びは12コマ物語から挿絵と物語に移行しており、らくがきちょうではなくノートに書けば学校にも堂々と持ち込めると考えた。授業中に突如衝動が降って湧いても、ノートに板書するふりをして解消できる。
名案だ。
ノートの消費が加速した。

脳内連載にノート小説が遊び道具となれば、高校の部活で文学部に所属したのは自然の流れだ。文化祭では部誌を発行する。素晴らしい。部室では部員が原稿用紙に向かって作品を書き、あーでもないこーでもないと唸りながらくしゃくしゃっと丸めて背後に放り投げるのだろう。私はそれを拾い上げ、広げて皺を伸ばし、今まさに作られていく物語を誰よりも間近で読める――と思いきや、入部してすぐUSBメモリを渡された。Wordに書いて保存してこいと言う。〆切は4ヶ月後。
思っていたのと違った。

〆切のある創作は初めてだ。今までは誰に見せるでもなく、自分一人で楽しんでいたからいつまでも書けばよかった。さて、どうしよう。
創作スタイルは人によって様々だと聞いているが、私の場合は運だ。突発的に人物が湧く。誰だこれは? と探り、しばらく様子を観察していると勝手にちょこまか動き出す。浮世離れした世界へふらりと傾く。どこへ行くのかわからない。私は彼らを書き留めるだけ。あるいは憑依する彼らと共に泣き、楽しみ、思考する。

当時は日常的に新たな人物が登場した。
ふとした拍子に私の一部から分裂した。
彼らは私の友であり、良き理解者だった。

空想は自由だ。
「実家」がどんなに私の肉体を痛めつけて支配しようと、私の空想までは制御できまい。私の脳内を満たす物語までは誰も操れない。私でさえも。

一度始まれば、私は紙とペンを持って追いかける。
授業風景が遠のいて、薄い膜で覆われる。
優先すべきは彼らを追うこと。教室のベランダや橋から飛び降りる渇望より、遥かに甘美で有意義な空想。私の代わりに彼らが飛び降りた。何度でも。

私の友に他人が〆切を設けるなど、不自然な話だ。

書き終わればそこで友は閉じ込められてしまう。
運良く短編に向いた存在が現れればいいが、私の都合が及ぶ範囲ではない。私が動かそうとすると、束縛を嫌う彼らは途端に魂をよそへ飛ばす。だらんと気の抜けた人形になる。私の役割は書き留めることだけ。

心に浮かぶ彼らと、文章に記す彼らとの乖離も苦しかった。
満足のいく描写ができないまま〆切を迎えた。

同時に、小説も読めなくなった。
何度繰り返し見ても、文字の意味が思い出せない。

読み書きは、こんなに難航するものだったか。

父親の怒鳴る声までも遠ざかる。

魂をよそへ飛ばす。だらんと気の抜けた人形になる。
それは私だった。

私は、精神病棟にいた。



友は私のそばに在り続けた。
働くようになってからも、お構いなしに動き出す。

やめてくれ。

私の意志の届かぬ範疇にいる彼ら。誰よりも安全地帯にいる彼ら。
今は業務中で、職場に自由は許されていない。きみらは今ここに来てはいけない。それが常識なんだよ普通なんだよ聞いてくれ。
止まる。意識が身体の奥の方へ、背後の方へ引いていく。

意識不在の容れ物。

応急処置としてスペアが前に出る。本体の代わりに仕事を手伝う。
本体を見ているので仕事の流れは知っているけど、あくまでスペア。仕事で注意を受けると、「私に言われてもなぁ」とぼんやり困る。
だけど、口に出してはいけないことも知っているスペア。そんなこと言ったら頭がおかしいと思われるか、ふざけていると判断されるかのどっちかだ。周りからは代理が来ているなんて区別がつかないからね。

私の友。前触れなく始まる空想。
仕事をする上での圧倒的な障害。
仕事の方が障害か。
扱い方は未だにわからない。

無職になって、友は喜んだ。
これで疎まれずに好きなだけ動き回れる。くるくるはしゃいで無邪気に飛び跳ねる友は可愛らしい。
こんなに自由で手がかかる個体まで、一律に働かせようとするのは無理があると思いませんか?
一日8時間週5日、黙って大人しく仕事をこなせます? 猫10匹と一緒に出勤するようなものですよ。
友が問う。
正論だ。きみらは猫だったか。

自分の身体なんだから、少しは思い通りになってくれたっていいのに。ねえ?
とらえどころなく漂う彼ら。物語になってくれませんか。口説いてみる。逃げられる。
〆切なんて守れないよ。
毎日コツコツだって書けないよ。
終わらせたくないの。
飽きちゃうの。
形にしなくていいじゃない。そうすれば向き合わなくたって済むよ。
俗世は窮屈なの。浮世離れも描けない。
のどかで健やかな花畑が読みたいのに、あなたの書く独りよがりな卑屈が嫌い。

そうかぁ。そうだねぇ。
明らかに雇われるには向いてないくせに、きみらのことも持て余す。だって面倒だよ。ずっと放し飼いしてきたのに、今更手懐け方を学ぶなんて。でも時間の問題だとも思うんです。遅かれ早かれきみらを味方につけないと、今世で窒息するじゃないですか。

私、知ってます。
あなたの脳内に流れるのは物語だけじゃないことを。
音色も色彩も含まれること。歌い出せば止まらないこと、色鉛筆を持てば没頭すること。中でもこだわりたいのが文字だってこと。

思考促迫って呼ぶそうですよ。

同じような人いませんか。これを飼いならしてる人いたら教えてください。一人じゃただの障害なんです。
振り回されてる人もいますか? 心中お察し致します。

臆病なので、怖いので、できるだけ見ないようにしてきたんですが、近頃彼らの主張が激しいのです。
飼い主の皆様、お元気ですか。

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