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ごはんをゴミ箱に捨てたらほっとした⑤

満腹感ってなんだ。

何度か低血糖でふらつきながらも、「空腹感」は掴めるようになった。
だけど「満腹感」はわからないまま。
苦しくなるまで胃に詰め込んで、吐いて調節する。「苦しい」と「満腹感」はきっと違うのだろうと思いながら。

お気付きのとおり、「好き嫌いするな。出されたものは残さず食べろ」教育の賜物である。大成功だ。


この頃、新しい友人ができた。
よく気にかけてくれ、食事に連れ出してくれる。
どうしよう、ありがたいけれど「おいしい」がわからないから申し訳ない、とここでも私は気にしていた。

辛いもの平気? とか、アレルギーある? とか、聞かれた気がする。よく覚えていない。この手の質問は意図が読めなくて苦手だ。

私の食の好みだの、アレルギーの有無だのを相手が気にする必要性がわからない。私のことなど他人にはどうでもいいはずだ。
私が好き嫌いや食べ残しをするか不安視していて、事前に遠回しな圧力をかけているのか?
友人は年上なんだから、年下である私に一言命令すれば済む話だ。もしかして、命令してもいいと知らないのだろうか?

どのみち私がすべきことは決まっている。
「出されたものは残さず食べる」以上。
それよりも「おいしい」がわからないとバレた瞬間どんな仕打ちを受けるのか、という恐怖のほうが重大だった。

人はにこにこしていても、私が何か間違えた途端に豹変する。

それは私にとって真実であり、常識だった。
どんなに相手が穏やかでも、カッと目を剥いて怒鳴り狂うまでのカウントダウンにしか見えなかった。

戦々恐々としながら着いた先はインド料理店。
このあたりから私の恐怖心は戸惑い始める。

メニューを見ても頭に浮かぶのは疑問符ばかり。
チャイが何かまずわからない。説明されてもわからない。飲んでみるかと聞かれても怖さが勝つ。
万が一にでも「出されたものは残さず食べる」が遂行できないなんてことは、あってはならない。自ら積極的に殴られに行くほど私は苦痛趣味ではない。

カレーの種類にも当惑した。見たことない横文字が並んでいる。甘口・中辛・辛口ではないのか。
なんなんだこのカタカナたちは。
なんでそんなに種類豊富に分かれてしまったんだ。

カルチャーショックを受ける私のそばで、友人たちは「日本のインド料理屋さんの経営者はほとんどがネパールの人なんだよ」とか「これはほうれん草のカレーで、こっちはバターチキンカレーだよ」とか教えてくれる。
インド料理なのにネパールの人が経営するの? とか、どうしてほうれん草や鶏肉みたいにわかりやすい言葉でメニューに書いてくれないの? とか、私の頭に疑問符が追加されていく。


そして運ばれてきた皿からはナンが堂々とはみだしていた。


皿の役割とは?

疑問符の容量が超過したんだと思う。
皿の存在を無視する広大なナンが無邪気なおふざけに見えた。いいんですかそんなことして怒られないんですか。怖くて生真面目なのが食べ物じゃなかったんですか。食べ物なのにテーブルにつきそうですよあなた。
カレーの色もカラフルで、初めて見る色だった。友人たちの皿も合わせて、緑と黄色と赤のカレー。
「おいしい」の代わりに「おもしろい」が口から出ていた。

その後も友人たちは度々私を誘い出してくれた。
「お腹空いてる?」「食べたいものある?」と毎回聞かれた。

質問というのは既に相手の中に答えがあり、私はそれを推測して当てることを求められているのだと解釈していた。もちろん、間違えれば殴られる。
「なんでもいい」と答えるのは失礼にあたるとネットで見た。「あなたに全面服従しますよ」と示す便利な言葉だと思うんだけどなぁ。

正解がわからず答えに詰まる私に、「肉? 魚?」「パン? 麺? ごはん?」と具体的な選択肢が与えられる。消去法でなら「魚ではない」「ごはんでもない」と私でも答えられた。怒られることはなかった。
「箸で食べられるもの」「ざくざくしたもの」と答えることもあった。「どこに行っても箸で食べられるよ。手じゃないよ」と返された。ふざけるなまじめに答えろ普通に言え、と怒鳴られることもなかった。

いつまで経っても、私は怒られなかった。

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