結論を導くことへの苦手意識

僕は以前から、結論を導くことに苦手意識がある。

恵迪寮自治会の執行委員をやっている時は、特に自分の意見を述べる際に整理して伝える努力はしていて、当時はある程度達成できていたと思う。(実際頭の中が整理されていると尊敬している上の年目に褒めて?もらって嬉しかった記憶がある。)

しかし、議題が難しくなると自分自身で結論を導くことが厳しくなり、安易に逃げて他の誰かの結論を求めてしまう気がする。
「○○だとも思うし、△△という側面もあって、けど■■という所もあって……。✖✖さんどう思いますか?」等と会議で聞いてしまう。

これは大きな問題なのではないかと思っている。一人の人間として意見を求めらえた時に、それが発信できないのだから。
大人足り得ないと言われても仕方が無いのではないか。


そして、これは物事の真偽をある程度の客観性を持って自分で判断することを不得手としている所、もう一段階掘り下げると無知に起因しているのだと最近思う。

もう少しその詳細のプロセスを僕なりに書くとこうなる。

①結論を導くことができない
 ↑
②議論の過程で妥当な検討を重ねることができない
 ↑
③ある対象を批評することが苦手
 ↑
④自分なりに適切な基準というものを設定することができない
 ↑
⑤物事の真偽をある程度の客観性をもって自分で判断することが苦手
 ↑
⑥判断根拠となり得る考え方や社会常識を知らない(無知)

これは飽くまで自分なりの分解結果だがある程度真ではないかと思っている。ただこのような領域に関する本も世の中にはきっと存在していると思われるので図書館で探してみようと思う。


話を戻すが、やはりこの無知というのは高校大学での知識の仕入れ=読書(インプット)が不足しているのだろう。

何しろ、一番読書量が多かったのは中学1年生だ。熱中している時は自由時間を全て読書に費やして1日3冊読んでいた。夏目漱石や太宰治を書店で初めて手に取ったのも中学1年生だと記憶している。

その後、僕の読書量は単調減少し続け、今は年間10冊程しか読んでいない。
大学生たるものもっと本に触れたいという思いは持ち続けてきたが、わかりやすく何かをなすことに取り組んできた。読書不足がこのような形で自分に返ってくると思うと皮肉だ。


兎にも角にも、春休みは色々なことと並行しながらこれまでの大学生活以上に本に手をつけてみようと思う。
大学入学前は、大学生は蔵書が豊富な大学図書館に浸かりながら過ごすものだと思っていた。そういう意味で大学3年生ではもっと「大学生らしい生活」をしたいな、と思う。

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