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TureDure 27 : インプロはショボい、だからいい(難しく説明するver.)

こんな記事を書きましてん。

この記事で言ってることを難しく説明してみようと思います。

まず、主体の社会構築性について前提を持つ必要があります。私たちはいかに自己を形成するのかといえばそれは原初的に受動的にそして行為遂行的に行われます。例えば医学的な性別の決定は受動的に行われ、その瞬間から特定の社会的性役割を担うことを社会的に要求されます。そうした社会的要求の中で、私たちは自らの意志を働かせて行為しているように思えますが、大抵はあらかじめ定められた範囲内の行為しか許されておらず、逸脱の傾向は厳重に監視され、そのことを主体に常に意識させます。そうした管理の視線が無意識化されることで自発的な服従をするようになった主体はあたかも自らの意志で行為したように錯覚するようになります。そのため私たちという主体はある特定の行為、ふるまい、パフォーマンスによって形成されています。同時にこのような主体形成は心理的にも作用し、自らの精神をこのパフォーマンスに適合させるように倒錯させます。自らの中にはこうした特定の行為ではない異なる行為を呼び寄せる欲望があるにも関わらずそれを否定します、そしてそんな自己意識が働いていることも意識されては困るので、そうした欲望を否定していることも否定します。このようにミクロな磁場で生じる権力は自己の身体及び精神に作用し、ある限定的な主体のあり方を形作り、それを繰り返し上演し、自己保存を継続的なものにしています。

このように主体は身体的・精神的にある特定の存在様式を社会的に方向付けられています。これは一般的にはその人の性格・傾向・趣味・キャラというような言葉で説明されているものです。これらの言葉はあたかもその人が自然にそうなったという決定論的なニュアンスを帯びますが、社会的な構築性を考えないようにするためのカムフラージュに過ぎません。人はそうした性格・傾向・趣味・キャラという社会的なものから呼びかけられ、それにレスポンスする形で、期待に応えるようにして自分自身を都度都度つくっています。

ですが、そうした都度都度、自分をつくっていく営みは、時折失敗しそうになります。芸術作品に心動かされた時、人生上の諸問題に頭を抱えた時、自分の想像を遥かに超えた他人と密接に関わった時・・・。こうした出来事が経験された時に、主体の自己保存の回路にエラーが生じます。バラバラと崩れていく砂の山をなんとか崩さまいとしてあれこれと手を動かしているうちに、最初の形とは異なる形で安定を取り戻すように、上のようなエラーを誘発する出来事は、その前後で主体の身体行為・精神構造の回路の安定の仕方を変えることがあります。

この時に重要なのが、自らの欲望です。なぜだかわからないが惹かれる、心を引かれる感じがあるもの、そしてそれにはなぜだか同時にひどく怖さを覚えるもの。そうした誘発性を持つ社会存在と出くわす。それはとても原初的な形で内発性を伴います。踊ってみたい、歌ってみたい、触ってみたい、食べてみたい、行ってみたい、考えてみたい、描いてみたい・・・。この欲望がわずかながらも私たちの内側に灯る時、その引力に身を委ねてみることができるかということが非常に重要になります。異なる仕方で自分を生きることが可能になるのかという問題と関わるからです。

こうした内発的な欲望へ自己を投下する能力があるとしたときに、その能力とは即興する能力であると捉えることが可能だと私には思えます。即興はなんらかの他者と共に同じ場を共有し、他者との間で何がしかをつくっていく行為です。他者との間でというのがポイントです。この時に、私が作りたい(すなわち社会的に要請されている価値観に沿った)ものを作るのではなく、他者の心が変数として加わります。そうすると他者の心が私の行為を制限するし、同時に私の心が他者の行為を制限します。その状態で互いに必要なことは互いの欲望に身を委ねていくことです。相手がしたいと思ったことが言語を介さずに伝わり、成就し、相手の欲望が満たされることが絶対的な喜びを引き寄せます。この状態になったときに身体も精神も社会的に構築された私を脇に置いて、その場と踊り始めています。こうした状態を理想状態として考えたときに、即興は日常の主体形成の場とは異なる仕方の振る舞いや価値観を要請していると考えられます。

そのため、即興の場で日常の自己を提示しようとするとうまくいかない。なんだかぎこちない、根本的に誤っている気がする、あるいは自分だけが楽しんでいて、他の人がどういう状態なのか全く感知していない自分がいることに気づく。こうしたエラーが自然発生的に巻き起こる教育現場は即興的だと言える。自己の執着がそこでは溶け始めている、そしてそれが物理的な危険ではなく、そのぎこちなさ、うまくいかなさまで快楽に置き換わる。そのような教育可能性を即興は見せてくれるように思うのである。

しかし、ことは単純ではない。即興は新たな権力として作用し始めているからである。その社会的空間の中で、覇権的なポジションに立つ群はそのポジションを無意識的にせよ手放すことを恐れる。そして、その覇権的な主体群の中でも特にいち早く伝統的な方法の有効性の危機に気づいた者は、最もその時節に有効で効率的な新しい支配の仕方を身につけるように学びを始める。現在で言えば、上機嫌で、コミュニケーションが円滑で、話をちゃんと最後まで聞いてくれて、他人の良さを引き出すようにして支配の疑問を抱かせない支配形式が台頭してきているとも読解可能である。これらのスキルが問題を引き起こすとすればこれらのスキルが他者の効率的な支配のために用いらており、自らは専ら支配されることを拒んでいる状態になることであろう。そして、それ以外の異なる方法に開かれる柔軟性が再び失われていってしまうことも問題である。

ではどうしろというのだ。こうなると問題圏は単純になんらかの特定の行動様式を身につけろという話ではないように思われる。即興とは常にゆらぎ、意味の確定しない魅力を持つと思うが、もちろんそれは向かう方向の予測不可能性に根ざしている以上、即興がいいことなのか悪いことなのかという価値判断は断定できない。しかし、私にとって即興は名状し難い欲望を誘発し、私の身体や精神を差し出すに値するものだという感覚はあるように思う。それがどのような帰結を導くのかは予想のしようがないが、主体の社会構築性の揺らぎを増幅させる毒薬として即興経験が必要なのではないかという考えが、あるのであるのよ。






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