Psy-Borg4~錯乱の扉⑧

 その後はもうよく覚えていない。彼は物陰で服を着替え、おぼつかない足取りで家へと帰った。まだ母は仕事から帰っていなかった。彼は着ていた服をゴミ袋に入れ、そのままダストシュートへ放り込んだ。

 それでもあの女の匂いが染みついているのではないかと、何度も身体を洗い、その日は部屋に閉じこもったまま食事も摂らなかった。

 それから何日も高熱が続き、身動きもできずにずっと寝込んでしまっていた。何もかもぼんやりして、その間の出来事が夢なのか何なのかわからない日が続いた。ようやく意識がハッキリとしてきたときには、なんだか妙にスッキリした感じがして、それっきり父のトレーラーハウスもあの女の事もすっかり忘れ去っていた。

(父の事を思い出したのは、入隊前のカウンセリングの時か…)

 しかし、その時も(落ちぶれた父親が町外れのトレーラーハウスの中で女と一緒に暮らしていた)という事以外思い出す事はなかったのだ。

(畜生。何で今になってこんなこと思い出したんだ…身体を這い回る巨大なナメクジは、あの女の舌先の事だったんだ)

 深層心理の奥底に仕舞い込まれた忌々しい記憶。その後彼に照らされた光が強ければ強いほど、その影は深く、濃くなっていく。

 エドが行った行為と呟きは、単なる偶然だったのかもしれない。それでも閉ざされた記憶の扉は今開けられた。

 その後も次々と暗く、惨めな記憶がにじみ出てくる。

 そもそも父がつまずき始めたのは、中東との輸入代理店を立ち上げた頃からだ。交渉役や代理人に多くのアラブ人達を雇っていた。休日には彼らを誘って自宅でバーベキューなんかもやっていたし、彼もその輪の中に入り、楽しい時間を過ごしていた。皆優しくて、人が良く、随分とクラウスも可愛がってもらった思い出がある。

 しかし、徐々に文化と宗教の違いが様々な軋轢と、問題を引き起こした。

「まったく、あいつらときたら時間も約束も守れない、口を開けば言い訳ばかりだ」

 実際に彼らが本当にそうなのかわからない。しかし父にとって、そうした常に顔を突き合わせている人間が、すべてのアラブ人に対するステロタイプになっていった。

「気がつけばアッラーに祈りだ。目の前の急務よりもアッラーが大事だ!少しは考えろって言ったって頑として受けつけやしない。なんなんだあいつらは」

 イラついた様子で毎日帰宅し、愚痴をこぼす毎日が続く。

 実際の現場を知らない母は、キャンプやパーティーで出会ったあの気のいい彼等しか知らない。自然とつい父を諫めるように彼らの擁護に回る。父にはそれが気に入らずについ口汚く彼らを罵り、母にもその矛先を向けるようになっていった。

 そして二人の口論が日常風景になっていく。もうそこにはお互いに対する不満しかなかった。

 その頃には互いに感情的になりすぎたのか、母は執拗に彼らを擁護し、父の人格を否定してまでも彼らの弁護に回る。それを聞いて父は物を投げつけ、時には手を出すまでに諍いはエスカレートしていった。

 それまであんなに暖かかった家族のリビングが、そこに居たくなくなる程に寒々しくなっていく。離婚が決まり親権をめぐる争いになった時、二人の優しさが打算的なものに見えて、やるせない日々が続く。

 そして彼は母親を選んだ。

「紹介したい人がいるのよ」

 父と別れ、クラウスを支えてきてくれた優しい母。その大変さは幼いながらも十分にわかっていた。だから反対する理由も見つからない。その頃には父に対する執着も、憐憫もなかった。

(どんな人なんだろう)

 不安もあったが、その頃には随分と分別もついてきていた。

(母が幸せになるんだったら、どんな人でも構わない)

 そして、彼が全寮制のハイスクールの入学が決まった時、初めて彼にあったのだ。

 髭をはやし、堀が深く、エキゾチックな、

 アラブ人を。

 クラウスはベッドから飛び起きたが、脳波観測用のナイトキャップにつながるケーブルでベッドに引き戻され、仰向けに倒れ込んだ。

(なんなんだ一体…)

 嫌な汗が体にまとわりつく。すると急にエマージェンシーコールが鳴り響いた。その音に驚きながらも、彼は急いで通信をオンにし、Jを呼び出した。

「何が起こった」

 今まで緊急通信などなったことがない。どこかで戦闘が始まったか?と緊張が走る。

「G-13の単独行動確認。任務指示確認できず。本部へ同時刻に指示要請。現在緊急対応。追跡中。当該活動に対する事後承認要請求む」

 クラウスは急いで自己認証を済ませて、事後処理手続きを行う。

「本部より指示。クラウス少佐の出動、及び事後収拾を要請。確認、送れ」

「本部了解。送れ」

「任務承諾確認。対応にあたれ」

「ラジャ」

 着替えを済まし、格納庫へと急ぐ。

 常に緊急時対応の訓練は怠っていないので考えるより先にスムーズに身体が動いてくれる。パワードスーツに乗り込むと、素早い動作で起動をする。それと同時にD-13が起動した。

「D随伴、座標転送。確認」

「了解」

 単独行動を続けるGージョージの現在地が映し出される。

(あいつはどこに行こうってんだ?)

 ハッチが空き、クラウスはデビッドを伴い砂塵が舞い上がる砂漠へと出て行った。

「この風だと視認は難しい。レーダー見失うな」

「少佐。GはH 32-βポイントに向かっている模様です」

「H-32β?そこは難民キャンプじゃないのか?何故そんなところに向かっている」

「通信不能。理由はわかりません」

 個別の体を持ってはいるが、元はクラウスの行動データを基にした一つの人工知能である。彼に理由がわからないはずがないのだが、なんらかのバズが発生したか、それとも最悪のパターンとして、どこからかハッキングされた可能性もある。早くGを確保しなければならない。クラウスは追跡の速度を上げた。

つづく

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