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水嗜好性について


1. 水に興奮する

 朝井リョウの作品に『正欲』がある。この作品では、「水」に興奮する人々が描かれている。興奮と言っても、見るだけで居てもたってもいられない!というわけでもなさそうだが、。これは驚くべき事態なのだろうか?
 確かに、私は水で興奮したことは無いように思う。しかし、だからと言ってそれが「異常」であり、「変な」ことなのだろうか。
 水に興奮するというのも一つの嗜好性として何ら変なものではない、ということをここで書く。
 いくつか、前提としたいことがあるので、それらを先に書いておく。「興奮」と表現しているが、何らかの心地よさを覚え、ある一定程度の性的快楽も伴う、ということを前提として話を進める。
(実際に、映画化された『正欲』における登場人物達は、以上のような状態になっていることが確認できる。)
 また、「水」とは、何を指しているのか。主に液体を指す。川の流れ、滝の落水、噴水から出てくる水、蛇口から吹き出る水、などを前提とする。個々人によって、その形状や、形態についてはこだわりがあるだろうが、ある程度普遍的に語るために、「液体としての水、そして流れや流動性を伴うそれが望ましい」としておこう。

2. 実存的分析

 性的な欲求の根本には、存在論的な欲求がある、と某哲学者は考えている。人間は、支配し、かつ同時に支配されることを欲する存在である。一般に正常とされている男の性欲について、簡単に考えてみよう。
 

 2-1. 支配したいし、支配されたい人間の例

 ある男は、かわいい女が好きだ。適度に奉仕してくれて、適度に真剣に向き合ってくれる、そんな女が好きだ。基本的には、自分の方が上だと思っているが、それでも平等だと口にし、やれやれと思いながらも相手の意見を聞いてやることにしている。プライドを傷つけられると怒る、しょげる。これは、すなわち相手が単なる従属ロボットでは嫌だが、同時に、何でもかんでも自分を追い越してくるような存在でもいやである、ということを示している。ちゃんと意識的な存在者であって欲しいが、何でも本当のことを突いてくるような奴は嫌だ、ということだ。よろしい、支配したいが、支配される瞬間もあってほしいということだ。
 他の例も見よう。ある男は、女王様的女性が好きだ。おや?と思う。先ほど、支配したいし、されたい、といったではないか。相手が女王であれば、完全に支配されているではないか?そうツッコミたくなるだろう。
 しかし、少し考えて欲しいが、相手に女王的気質を望み、それで快楽を享受しているのは誰か?支配的なパートナーを持つ。それでも、私はそれに満足し、むしろそうであってほしいと願う。これは要するに、支配的な人間を、裏側から支配しようとしていることではないのか?へいへい、私はあなたの奴隷でございます、云々。嘘をつくのもいいかげんにしやがれ、本当には、そんな態度を取ることで実は相手を支配しようとしているではないか。
 いや、そんなバカなというのか。よろしい。相手が支配力が強い。私の支配力は弱い。私は支配されようと自ら身を差し出す。私はモノ同然である。支配権は全てあなたにお譲りします、、。という態度の人間もいるではないか。しかし、人間存在は完全なモノになる事などできない。差し出す、という意識自体は残るではないか。その意識は如何にしても、相手は超えることができない。もう十分だろう。女王様的な女性を好む、ということは、確かに私の支配力を弱めることになるだろうが、それでも支配したいし、支配されたい、という欲求から解放されているわけではない。むしろ、両立ができないからどちらか一方に偏ろうというある種の努力なのである。
 むろん、これの反対が、威圧的な男であり、従順な女を求める男である。偏りが激しいとき、それをサディストと呼んだり、マゾヒストと呼んだりするのだろう。
 ここは、各種の性欲について分析を加える場ではない。何が人をサディストにするか、マゾヒストにするか、それを検討する場ではない。あくまで、人間(ここでは、男に限定されていたが、女性も同様である)は、支配し、かつ支配されたいという矛盾したような欲求を持つ存在であるということを例をもって示そうとしただけである。

 2-2. 水嗜好性への適用

 さて、話をもとに戻そう。
 水に興奮するとはどういうことか、これを考えるのがここでの問題であった。そもそも水は、どんなであったか。先に、「液体としての水、そして流れや流動性を伴うそれが望ましい」として、水を規定した。これを念頭に考えよう。
 先に結論から言えば、支配し、支配されうる対象として、「水」も該当する。これが私が言いたいことである。
 水は、容易に支配しうる。
 使い勝手が良い。親しみを持っている。体内にも流れている。水上スキーをやったことがある人なら分かるが、水上で自在に乗り物を操る気持ちよさ、「まさにこの場を支配している!」という感覚。いくらでも加工しうる。精神分析は、自分の畑ではないが、かの『ドグラ・マグラ』でも、人間は原始を記憶を細胞レベルで記憶している、とのことが説かれていた。人間は、海を知っている。人間は、水に囲まれると安心する。しばしば、お風呂につかると安心しリラックスできる。それに、その安心感は、胎児の頃の羊水の心地よさを思いだしている、とかいうではないか。

 では、支配してくる水とは何か?
 水は、自然の象徴でもある。水は元来驚異である。
古代の人間は、海を征服することはできなかった。今でもできない!
 確かに、平穏な海域は自在に、船舶が通ることができる。しかし、海は危険に溢れている。だから、漂流記が映画になったり、小説になったりする。危険とドラマがあるからだ。
 津波はどうか。地震の度に津波の心配が考慮される。恐ろしい存在である。しまった。海だけに限定している、との声が聞こえてきそうだ。
海だけではない。プールで溺れかけた事はないだろうか。息ができないことの怖さを知っているだろうか。水は太古から、現代にかけて、状況次第では恐ろしい存在でもあるのだ。

3. 何ら「変な」ことではない

 人間は、支配し、支配されたいのであった。
何も人間でなくたっていいじゃないか。意識的な超越をしてくるのは、確かに人間である。そして時折動物も参入される(獣姦は措いておく)。
 性的な欲求が、人間に限定されることは無い。
 
従って、性欲の向かう先が水であることは何ら変なことではない。
 これを変だ、異常だと思ってしまうのは、明らかに認識の誤謬である。
 
無批判的にしか考えられないからそうだと思うのだ。自分は普通であると思っている方が私からすれば変であると思う。
 この文章にそこまで強い主張を掲げるつもりは毛頭ないが、考えるきっかけとして、捉えてくれれば幸いである。
 そして、先にも述べたが、「では、なぜ水を好きになるのか」「なぜ、ロリコンになるのか」「なぜ女王様的女性を好きになるのか」についての心理学的な考究は、まだ待たねばならない。これについては色々な解釈が可能であろう。ここではあくまで、いずれの人間においても、性欲を支える根本的な欲求は、万人に共通したものがあると考えられる、ということを述べたまでである。


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