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餃子のカタチ


餃子がなぜあのカタチなのか私は知らない。

生まれてから6歳まで海外(インドネシアのジャカルタ)で過ごした私は、6歳まで餃子を食べた記憶がない。

そんな私が餃子を食べたことをしっかり覚えているのは、日本に帰国した小学1年生の頃。

ある日、母親から「手伝って」と言われ
2つ上の姉と餃子の餡を入れる作業を手伝った。

キャベツたっぷりに我が家ではエビを細かく刻んだものが入る。
トロトロとした餡を餃子の皮で包む方法を丁寧に母から教わった。

が、しかし
なんで餃子のカタチがこの形なのか。
意外と餡と皮のバランスを上手く組み合わせる作業は当時の私には難しかった。

「ねぇねぇみて!」哺乳瓶型の餃子を作ってみた。
「え、すごい。私も」負けじと姉もクマの餃子を作ってみせた。

「焼く時飛び出ちゃうかもしれないよ」と
母は呆れ顔だったが、私と姉は大喜びで別のカタチを作っていく。

段々とどちらの方がよりいい作品を作れるか夢中になって餡を詰めていった。

きっとあの時の母親は、まぁ楽しんでくれればいいかという気持ちだったのだろう。


全部の餡詰め作業が終わり、母へとバトンタッチ 

いよいよフライパンに投入され、
ワクワクしながらその時を待った。

「あぁ、やっぱりだめだ」と時折母親の言葉が漏れる。

私の作った哺乳瓶型はすっかり変わり果ててお皿に並べられたが、それでも自分の作品が完成したと思うと嬉しい。

原型がなくなった餃子達をみて、
「これ私の作ったやつー」と私たち姉妹は笑いが止まらなかった。

日本への帰国は、ジャカルタでの暴動が酷くなってきたからという理由がある。

当時、背景や理由は分からないが、デモや暴動、海外に住んでいる日本人であることに、幼い心に怖さだけは感じていた。

仕事のある父親だけを残し、日本に帰国した私たちは、寂しいかと思いきや、毎日が笑いの連続。

母親がセミの鳴き真似や、CMで流れている歌を歌ってくれたり、3人暮らしは毎日が平和で穏やかで、今思うと母の愛情で寂しさを感じないように過ごすことが出来ていたのだなと分かる。

餃子のカタチ
今ではもう綺麗に包むことができる。
お店で食べることもあれば
買って食べることもしばしば。

いつか私も子供と餃子を作る日が来たら嬉しいな
、なんて。どのくらい先のことなんだろうか?

不安定な世界で、その日が来るまで。
平和な日常が続いていくことをただただ願いながら、今日も私は出来上がりの餃子を買って帰ります。

うん、綺麗なカタチだ。


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