菅政権の自助共助公助、小池知事のソーシャルディスタンス、日本人の心に潜む主観性

経済コラムニストの大江英樹氏がダイヤモンドオンラインに載せた記事について。菅首相の自助共助公助というスローガンについてである。以下引用。

菅総理が言う「自助・共助・公助」にはもちろん社会保障の面が含まれてはいるだろうが、もう少し広い意味で社会のあり方、社会のデザインを意図してのことであろう。そう考えるのであれば、まず真っ先に「自助」が来るのは当然のことである。なぜなら、そもそも人が生きて生活を営む上においては、まず自らが働くことが第一であるのは言うまでもないからだ。したがって最も大事なことは誰もが働ける内は、そして働く意思があれば長く働くことができ、しかも満足できる報酬を得ることができるようにすることである。そのために大切なことは経済が成長し、企業が収益を上げられるようにすることが重要だ。すなわち「自助」という言葉の裏に隠された重要なキーワードは「経済の成長」なのである。
(ダイヤモンドオンライン2020年9月29日)https://diamond.jp/articles/-/248616?page=4

同氏は公助の例として生活保護を、共助の例として公的年金を挙げている。生活保護や年金よりも働かないと始まらないから自助が第一という主張だ。

しかし、公助とは何も生活保護だけではない。例えば、働くためには教育が必要だが、奨学金にも、国公立の大学などに通うのも税金が使われている。これらも立派な公助なのだ。何も生活保護というセーフティーネットのようなものばかりではない。

政治家とは、法律により国民の生活環境を整備することが仕事だ。国民の生活の様々なところに税金が使われており、日本経済が低迷しているのなら「国民の労働力で経済を成長させてくれ」ではなく、労働の原動力となる部分(特に教育)に国が税金から財政出動することが必要不可欠である。上記の文章はその重要性を見失いかねない文章となっている。その問題の原因は「公助」という言葉を様々な意味から特定の意味に狭めて解釈していることだ。

一般論として、スローガンは簡潔にわかりやすく伝える反面、言葉が少ないことで、詳細な意味が明確にされない。明確にされない部分は、その言葉を聞いた人間が主観的に判断する。このスローガンの主観性はセンシティブなテーマでより深刻な問題となる。例えば、日本のコロナ対応の際に小池知事が言った「ソーシャルディスタンス」という言葉。これは「距離を取らない人間は社会(ソサイエティ)に適応してない人間だ」というイメージを植え付ける。

ドイツ語でsoziale Distanzierung(社会的距離)という該当する言葉は使われるが、スローガンとしては使用しない。せいぜいコロナに関する長い文章のなかで、多くの表現の中の一部として少し使われる程度だ。他には例えば、physikalische Distanzierung(物理的距離)、physische Distanzierung(身体の距離)などの様々な表現がある。距離という言葉でなければもっとある。

ここで気づかれる方もいるかもしれない。物理的距離にしても身体の距離にしても実際に測ることができる距離であり、距離という言葉に余計な意図は加わっていない。誰が聞いても同じ距離という意味でしかない。客観的だ。対して、日本のスローガンである「社会的距離」は「社会」という言葉の様々な意味のなか、聞いた人間が自分にとって「都合のいい意味」に主観的に選び取って理解する。さらに、その意味は明らかにされず、隠される。

日本のスローガン主義には独特の主観性がある。日本人は長くその文化の中で生き続けてきた。その慣習は簡単に変えることはできない。勿論、主観性は悪いことばかりではない。豊かな想像力により、優れたサブカルチャーを生んできた実績もある。しかし、加速するグローバリズムと、失速する日本経済において、日本人の主観性、スローガンにおける言葉の意味の単純化、そこから生じる一面的なものの見方、これらは自分たちの失敗した国づくりを成功したものだと思い込み、代替え的な満足感を満たすための麻酔にしかならないだろう。

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