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わたしと家族のこと

両親に娘ふたり。ありふれた核家族の我が家。
はたから見れば、ふつうに幸せそうな家族にさえ見えるかもしれない。
でも、内情はそこそこめちゃくちゃだ。


わたしは犯罪サバイバー

幼いころのわたしは、何も考えず生きていたと思う。
ずる賢いところもあったから、厳しくしつけられている姉の陰に隠れてこっそり自由を手に入れていた。両親の関心は良くも悪くも姉に向いていて、わたしはほったらかしだった。

それでもさみしいと思うことはなかったし、困ることもなかった。
何も考えていなかったから、子供のころの記憶もおぼろげだ。

そんなわたしが思考するようになったのは、中学生になったころからだ。
自分のこと、友人のこと、家族のこと・・・思い悩むというより分析していた。

わたしは客観的に分析をしながら、両親の期待から外れないよう行動してきたと思う。でも、わたしにとっての両親は期待外れだった。分析すればするほど、親は期待外れなのである。

それが決定的になったのが、犯罪被害にあったときだった。

事態の深刻さに向き合えない親。正確には、母は向き合おうと必死だった。でも、どうすればいいかわからなかったのだろう、日に日に余裕がなくなっていくのがわかった。そんな親を見ていて、すっかり気持ちが冷めてしまった。

わたしは、親に期待することをやめた。

うつになった姉

わたしと比べて姉は、とても繊細な人だ。それに気づいたのは大人になってからだけど。

子供のころの姉は、ひとことでいうと「荒れていた」。気持ちを無視され、両親の理想の枠に押し込められていたのだから当然だ。

わたしはというと、ちょっとした有名人だった姉を誇らしく思っていた。「おねえちゃんが有名人」ってことが嬉しかったし、憧れだった。・・・のんきなものである。

家族の誰も、姉の苦悩を知らなかったのだ。

成人後、結婚したいと思っていた彼と別れたあと、姉はうつになった。
わたしの親は「期待外れ」だ。姉のうつに向き合うほどの器はない。姉は、自らうつを治すために奔走した。

姉は今、カウンセラーをしている。うつサバイバーだ。

だからやっぱり姉は、わたしにとって「誇らしい姉」に変わりはない。

噛み合わない親と娘

親に期待することをやめたわたしは、さっさと家をでた。もちろん、親の期待に添うこともやめた。
殺されて死んでいたかもしれないことを思えば、親に人生を捧げている場合ではないと思ったからだ。

「やりたいことを片っ端からやる」

あのとき決めた人生の目標は、今も変わらない。起こらなかった方がよかった出来事だけど、犯罪被害にあった経験が、わたしの人生観をまるっと変えてしまったことは偽りようのない事実だ。

一方姉は、うつについてさまざまな勉強をしていた。もちろん病院にも行ったし、自分に合うカウンセラーを探してカウンセリングにも通っていた。その中で、根本原因が親にあることが分かってきたのだ。

幼少期の親との関係性、環境、価値観・・・簡単に言ってしまえば、親がそう育てたということだ。

だから姉は、幼少期の苦しみを親にわかってもらおうとした。それを丁寧に説明したり、ときにはぶつけたりしたのだろう。そんな姉に『親のこころ』という本を渡してくるほど噛み合わないのが父だ。

姉がわたしに助けを求めてきた

姉のためになんとかしたい母。真剣にとりあわない父。
言い合いも絶えなかったし、ときには姉が暴れることもあったらしい。ときどき話を聞いてはいたが、わたしは家族と距離を保ったまま深く介入することはしなかった。

でもあるとき、姉から電話がかかってきた。助けを求めてきたのだ。
それまで、姉がわたしに頼ってくることはなかった。びっくりしたと同時に、ただ事ではないと感じた。わたしは、すぐさま実家に向かった。

親と相対するのに限界がきてしまった姉は、子供のようにわんわん泣いていたと思う。
そこからわたしは、家族と向き合うことになる。

親戚で一番幸せな家族になろうよ

家族とふたたび関わるようになった。

姉とはよく話すようになり、母とも話が通じるようになっていた。後にわたしは実家に戻ることになる。フリーランスで、実家のほうが金銭的に楽だという理由もあった。
そのころ姉は、カウンセラーの道を歩み始めていたから、わたしは父と母と、3人で暮らすことになった。

家族が分かり合えるようになったわけではなかったけど、以前より対話ができるようになり、わたしの心も少しずつ変化していた。
そんななか、まったく変わらないのが父だった。相変わらず噛み合わない父は、たびたび姉を傷つけてしまう。もちろん、わたしも母も、父と噛み合うことはなかった。

「親戚で一番幸せな家族になろうよ」

わたしが父に投げかけた言葉だ。こういう言い方が、父に効果があるとわかっていたからだ。

その裏には、親族に脈々と受け継がれてきた価値観や、その支配から脱却してほしいという思いがあった。

わたしの言葉に触発された父は、「よっしゃ」とやる気をだした。そこから毎夜の家族会議がはじまった。
それぞれの幼少期の振り返り。親のこと、自分のこと、そのときの気持ち、そして夫婦問題。議題はさまざまだ。

最初は順調に進んだものの、1ヶ月ほどで不穏な空気が流れ始めた。父は物事に深く向き合うことができないのだ。心の対話をしたくても、父とは到底無理だった。

3ヶ月ほどで限界がきて、家庭内別居がはじまる。その後の話し合いでも、父は真剣に向き合ってくれなかった。
結局、母とわたしは家を出ることにした。

別居を経て二度目の家族会議

父をひとり家に残し、母とふたりぐらしを始めた。
母はときおり家に帰り、父と話し合いの場をもった。そんな母の話をわたしが聞き、父の話は姉が聞いていた。

わたしは「離婚するならすればいい」と思っていたが、母は答えが出せないでいた。どちらかといえば離婚しない道を模索したいのが母だった。

最初はただ怒っていた父も、姉のサポートもあり落ち着いてきた。少し冷静な視点も持てるようになってきた・・・ようにも見えた。

別居して2年と少し経って、母が家に戻ることを決めた。わたしも一緒に戻ることにした。別居まで行動を起こしたのだから、それなりに変化があるだろうと信じて疑わなかった。

しかし、である。

父がまたも、姉を傷つけてしまう。そしてまた、家族会議が始まる。もう二度とやらないと宣言したはずだったのに。

父はパーソナリティ障害

二度目の家族会議は、一度目と同じ流れになった。
最初は順調に進むが、父が向き合えなくなる。次第に険悪になり、顔をあわせるのも嫌になり家庭内別居になる。いま、ここ。

なにやってんだかって話だけど、無意味だったとは思っていない。父の育った家庭環境、祖父や祖母の性格、父の発言など、これまで話してきたことで、父への理解が進んだことは間違いない。

父は自己愛性パーソナリティ障害だった。演技性の傾向もある。もちろん本人に自覚はない。

例に漏れず困っているのは家族であって、父は自分に問題があるとは1ミリも思っていない。本当に厄介な性質だと思う。

家族崩壊の危機(いま、ここ)

崩壊寸前の我が家だけど、ここに至るまで長い時間を費やし向き合ってきた。もちろん、崩壊するためではない。幸せになるためだ。

今は姉が父のサポートをしている。そう、傷つけられてきた姉が、父を慰めつつ導こうとしているのだ。
そんな姉をサポートするのがわたしと母。3対1の構図に、父親がかわいそうだと言われることもある。でも、この状況を招いたのは父だ。

家庭内別居も不便が多いし、父に対してひどいことをしているという罪悪感に、心が折れそうになることもある。でも、父に「今問題が起こっている」という認識を持ち続けてもらうことが、必要なプロセスだと思っている。

とはいえ、家族内での取り組みには限界がきた。だから今回は、第3者のサポートを借りる方向で動き出している。諦め半分。だけど、権威者に弱い父なので、医者の話なら聞くのでは?と、わずかながら期待をしている自分がいる。

結局、父に幸せになって欲しいのだ。


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