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はじめの一歩 其の3 心はもの

(心のカタチより)

心は”もの”である。
使いこなすかこなさないかは自分しだい。
それはその心を良くも悪くも扱うのも自分しだいということ。

心は自分自身にある。
道具(もの)は扱えるから心(もの)も扱える。
その心を扱うには心を知らなければ扱えない。
知らないと心に扱われてしまうことがある。
”もの”と知らなければ
扱うことさえ知る由しもない。

『心はもの』

人の心の中心には幸せを判断する基準がある。
それを「気持ち」といい
自身を幸せに導くチカラとなる。

ただ。
その取り巻く感情が自身を迷わすことをする。

ところで。
自分は心の何を知ってますか?
心は産まれて一緒に活きてきたから
自分が一番よく分かっていると思うでしょう。

そう思っている人に心が何処か。
どんなカタチをしているかと聞くと
在り来たりな答えしか返ってこない。
頭や胸のあたり。
ハート型。

本当にそこが心ですか。

「感情を知る」

実は”わからない”という人の方が
よほど自分の心を分かっているのです。
それは。
心のことを知らないことを知っているからです。

何を理由に知っているフリをしてしまうのか。
何れにしても自身で知る機会をなくしていたのです。
知らないことを知っているというのは
大概は見栄や羞恥心などの感情で迷わされ言っているのですが
それは心を知っているとは言えず
自身の感情をよく知っていたのです。

思い出してみてください。
学校の先生に心という漢字を習い
その意味を辞書で調べました。

しかし。
心のあるところやカタチまでは習ってないはずです。
もしそれでも知っているという人はテレビや漫画などの影響かも知れませんね。
自分たちは心を知らなくて当たり前なことなのに。

ただし。
心は自身のどこかにあります。
それを知ろうとするかどうかは自分しだいです。

「説明できないから心にならない」

誰もが心があることを知ってます。
それは心があることを感じるからです。
その心がどこにあるか今は分かりませんが
意外と思いがけないところに
心があったりもします。

例えば”心は腕です”と言われて信じますか?
それは無理ですね。
突然、腕が心と言われても信じる訳がありません。
たとえ何かを間違えたときに
その腕で間違ったよと頭をポコッ!とコツいてくれても
それを心と考えるのは無理があるのです。

それは何故か。
それは腕が心ではないのではなく。
腕が心と説明できないことで否定も肯定もできないからです。
心がハートの形をしてると思うことも
胸や頭のあたりに心があると思うことも
その説明ができないから正しくも間違いとも
どちらにもならないのです。

今まで習ってない心を突然解ろうとしても
そう簡単に出来ることではありませんが。
分かることから少しずつ紐解くように
心解いていくしかないのです。
それは自身には心があるのだからできるのです。

自分が今。
心の説明をできてないのは当たり前なこと。
それは辞書に「心のあるところ」が書いてないことからも判るはずです。
辞書を作る人でさえ知らないのだから
”知らない”ということは恥ではないのです。

「手と脚と同じ”もの”」

少し心を整理します。
まず自分たちには心があることを知ってます。
それは紛れもない事実でした。
身体のどこかにあることも自ずと判ります。
腕や脚や眼や耳などと同じように体のどこかにある”もの”です。
そしてもう1つ分かることがあります。

手や脚は体の一部です。
その体一つ一つが自身にとって役立ちます。
手は掴むことができます。
脚は立ったり歩いたり時には走ったりもできます。
それは体の一部である前に「もの」として自身が扱っていたのです。

それは自身にある心も例がいなく
体のどこかにある『もの』だから扱えて当たり前です。

それがもう1つ大切なことがあります。

自身の体にあるものなら手足と同じように使い熟すかこなさないかは自分しだいということです。

つづく


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