オンラインセラピーについての覚書き

人生2度目のコロナに罹って在宅時間がたくさんできたので、こちらの本を読んでいた。

https://amzn.asia/d/aevb5pj

※3月12日現在、リンクの埋め込みが不具合でうまくいかず。なのでひとまずリンクのみ。

これがまた非常に面白く、刺激的なので時間を忘れて読んでいる。

目次をみてまず驚いたのは、センサリーサイコモーターセラピーのパッド・オグデンが寄稿している点だ。オンラインでの身体志向セラピーの実際について書いている。
オンラインでのトラウマケアを実践する身としても、大変参考になった。

インタビューでは、ルイス・アロンとガリト・アトラスが答えている章もある。
ガリト・アトラスといえば昨年の分析学会でも話題になった。

https://amzn.asia/d/2qhO04W

精神分析プロパーの中でもオンラインの取り扱いは議論になっている…と言うより意外にも精神分析の方が他学派に比べて一番センシティブに反応しているようだ。ガリト・アトラスはオンラインに対し非常にポジティブな姿勢で、対する関係学派のルイス・アロンは慎重な姿勢を示す。

この本のカバーする手広さは驚きに値する。精神分析があるかと思えば、かたやソマティックサイコロジーのようなトラウマ治療、スーパーヴィジョン、グループサイコセラピー、家族療法、カップルセラピー、組織コンサルティングまである。そしてポージェスのポリヴェーガル理論における「顔」と相互交流の知見はオンラインを説明する上での一つの説明基盤にすらなりうるという。

これ、大学院のテキストにしてもいいのでは…?と。
シンプルにびっくりしているのだが。

これを読んでいて、実は自分が2024年の正月(1/5)に下書きで書いたオンラインセラピーに関する覚書があったのを思い出した。

この本を読了する頃には、もう多分自分のパーソナルな思考は奪われてしまうだろうな、と思ったので、恥を承知で下書きほぼそのまま投下しておこうと思います。

これはあくまで自分自身への記録なので、興味のない人以外は特段読まなくても大丈夫です。荒削りだし、かなり深夜に殴り書いたので文脈もあっちこっち行ってます。
豊かさとは何か?がこの日の夜のテーマでした。

書きかけなので文章も途中で唐突に終わりますが、悪しからず。
以下、下書き。


年末ふりかえり2023の覚書

「年末ふりかえり2023」の自分の文章を見返していて、後からぽつぽつ思うところがあったので、覚書として書いておきます。
つぶやき、程度に読んでもらえたら。

その1 オンラインについての意見

「方法としてのオンラインカウンセリング」の項で書きそびれた事として、そうはいっても「オンラインという方法は、あくまで対面での経験がベースの上での応用である」という点が一つです。

これはあくまで臨床家側の話ですが、
臨床経験少ない中で、いきなりオンラインだけからスタートします、というのも少し違うのかな、という気もする。
セラピストにおいては、面接の基礎(特に治療構造)をしっかり身につけることが肝要なのは当然だ。
これはそうすべき、というよりそうあってほしい、という私の願いかもしれない。
それがユーザーに対する礼儀であり、現状、考えられる倫理的なラインのようにも思うからだ。

その2 治療者・相談者のさまざまなニーズ

さまざまな相談のニーズに応えいく形は一つではなく、いくつかあって良い、という点について。

もしかすると、どちらかといえばオンラインは支援者側のニーズに依っているところも大きいのかもしれない。なぜなら、ユーザーにとっては「来所してできれば一番良い」に越したことはないかもしれません。

したがってオンラインという方法を選択するのは「提供する技術はあるけれども提供する場と手段がない」という支援者側にとってのニーズを満たすものである、という点がひとつ。

一方、たとえばトラウマケア、あるいは認知行動療法など特定の技術を提供する人が近隣にいないクライエントにとって、遠隔によってそれを享受できるのは、メリットかもしれない。本来提供できるはずのない距離(つまり県外)に住んでいるクライエントに、こちらが臨床心理の技術を提供できるのも、これも一つのメリットかもしれない。(これはココロンで非常に痛感した点でもある)

「サイコアナリシスオンライン」でも、ある州から別の州に引っ越して、越境したクライエントに、引き続き支援を提供するために、Skypeが用いられた事例が取り上げられている。(同時に州による保険適用の違いへの配慮が必要になる)実際、沖縄から移動してもつながり続けることができた事例もあり、これも非常にわかるところで、身に覚えがある。これぞテクノロジーの恩恵に他ならない。

さらに、成人のひきこもり状態にある方のような、まったく外出ができない状態だけれども、かつ何とかしなければと焦っている状態の人とも、ZOOMで会うことができるだろう。(究極、画面オフ+音声のみでもいいのである)

このようにオンラインには本来つながりえない縁を、つながりうる縁に近づけることができるという利便性がある。これはかつての心理士には用いえなかった道具であることは確かだ。

少なくともこの時代、トラウマインフォームドな視点に立てば、対面の方がむしろハードルが高いと感じる人たちがいることもまた事実である。

オンラインのない、物理世界には一定の不自由さがある。今であれば簡単に届く情報が簡単に届かない、時間がかかる、手間がかかる、等々。

一方、そうした不自由さゆえの、豊かさもまたある。

mp3データで簡単に聴ける音楽がある一方で、アナログレコード(LP盤)があえて昨今また売れているのにもどこか似ている。

手触りによる質感や、視覚的なアナログジャケット、ざらついた音質、五感を通して物理的にしか味わえないそれらは贅沢の一言に尽きる。
それらを一旦忘れたからこそ、戻りたくなる、というのも人の世の妙なのだろう。

話はずれるが、私は近い将来、カウンセリングで感情をじっくり味わう、という行為自体が贅沢品になる日が来るのではないかと思っている。なぜなら世の中は楽になる方向で進むし、AIも発展したら人間がわざわざ苦労をしなくても、世の中が回るようになる。人間にとっての害のあるもの、困りごとは早々に解決される。そうしたら苦痛に出会うことが逆に難しい世の中になるかもしれない。

すると、苦労することの価値は逆に上がっていくはず。
大変な思いをして、泣きたい思いや、怒りに肩を震わせることは、不愉快なことではあるけれども、いつか体験したくてもできないものになる日が来るだろうか?その時価値は一度ひっくり返る、といったら大袈裟だろうか?

詰まるところ、対面であれオンラインであれ、「豊かさとは何だろう?」というテーマに収斂する気がする。

Spotifyでだって音楽は聴けたら楽しい。出会えなかった音楽にだって出会える。
レコードで聴く音楽だって、それは格別なものがある。

オンラインで参加する研修会だってどう考えたって楽だし、便利じゃないか。

多様な豊かさが錯綜する。

「すべては体験である」とユングは言った。

フロイトも電話が世に現れた時、最初は訝しがってオフィスに置こうとしなかった。けれども結局のところオフィスに置くことになり、それで書いたのがかの有名な技法論文(「精神分析を実践する医師への勧め」)だった。
「分析医は患者の無意識に向けて、自分の無意識をまるで電話の受話器(マイクロフォン)のように差し出す」というあの有名な一節である。


(下書き終わり)

冒頭の本書でも、フロイトが電話嫌いだった、彼はむしろ手紙を好んだ、というエピソードが触れられている。

そしガリト・アトラスがインタビューの最後で、私たちのオンラインへの反応は「失うことへの不安」なのかも、と最後に重要な示唆を漏らしたのは重要だったと思う。
(フロイトもそうであったように?)

※電話が初めて世に出た時も、新聞は絶望して「もう誰も直接会って話さなくなる、家で電話すれば事足りるのだから」と見出しに書いたのだという。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?