思考のベースに相手がいる関係

バスジャック / 三崎亜記

“信じているんだね
信じている、というより、信頼しているんだ
どう違うの?
信じるっていうのは、お父さんからの一方的な気持ちの押し付けだ。こうあってほしいという身勝手なものだね。信頼するっていうのはそれとは違う。お互いの存在や、考えていること、やろうとしているを認めあえる関係のことなんだよ。お父さんは、お母さんとそんな関係でいたいと思う”

ああ、深い。
「信じる」も「信頼してる」もどちらも使う言葉。なんとなくの違いは自分の中にあったけど、この文章を読んで、ああそうだ、こういう違いだと腑に落ちた。

「信じる」というのは、何か言った人の中でイメージがある。信じる「形」のようなものがある。相手に対してなら、「こういうことはしない人。こういうことをしてくれる人…。」のように、相手に対して枠組みを持ち、その中での相手との関係性を表す表現である。

一方、「信頼する」は「形」を持つものではない。信じて、頼る。信じるという言葉自体は上と同じだが、さらにそこに「頼る」が加わる。「あなたに頼るよ」つまり、「あなたに任せるよ」「あなたが想うように行動した全てを、私は自分の中に受け入れるよ」になる。
たとえ表から見える行動が周りから見て疑問思うことだとしても、裏にある相手の真意、考えの中に私自身、お互いのことを考えた結果、こうすべきだと判断して行動しているものだと「捉える」ことが「信頼する」ではないか。本の中では「認めあえる」とあるけれど、私は「捉える」ことが前提にあった上で「認める」になると思う。

いつだって見えることは一部でしかない。その一部を見て考えたことは、「自分」の考えであって「相手」の考えではない。言葉一つとってもどういう思いを持ってその言葉を使っているのかは人それぞれだ。でも、全てにおいて相手の考え、想い、言葉、行動のベースの中に自分がほんの少し組み込まれたら、その先のアウトプットがどういう形であってもブレたりしないと思う。

自分の全てのベースや軸に自然とお互いに相手がいる。そういう関係のことを「信頼関係」というのかもしれない。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?