今の自分は本当に自分ですか?

自分の中の「無意識」の部分が知らない間に書き換えられたり、何者かの支配下に置かれていたら怖いだろうか。

私は怖くない。無意識が知らない間にいくら作り変えられたとしても、自分でそれには気づけないだろうから。逆に「月の裏側 / 恩田陸」の中での協一郎、多聞、高安、藍子は、無意識が入れ替わってしまったら、これは自分であると証明できないから恐れたのではないか。

「何を、どこを」これが自分であると表すのは難しい。今、こうやって考え、行動していることも本当に自分の意識によって行なわれているのか?誰かに操作されていないのか?と疑い始めてしまったら止まらないだろう。結局、証明することはできない。自分で、自分をどこかで肯定することが必要になる。
私自身の中に「これがあるから自分だ」と言える確固たる軸があるわけではない。もし藍子たちのように、自分だと思っていたものがすべて作られたものかもしれないとわかったら(マトリックスの世界みたいな) 驚くし多少は落ち込むかもしれない。でも落ち込んだり悩んだりしても変えることはできない。そうなのかと受け入れ、考えないようにしてしまうように思う。

また、話の中で4人は、目には見えない何かによって自分の無意識は「盗まれる」と表現している。「盗まれる」と考えると確かに怖い。自分の中にあるものがなくなってしまうように取れる。でも、「盗まれる」ではなく、「OSのバージョンアップ」と考えたら怖くない。結局のところ何者かによって引きずりこまれ再構築された後の自分は、引きずりこまれる前と何も変わらないのだ。少し意識をしてみると、意識の根底に何者かの意識が混じっていると気づくくらい。それすらも勘の鋭い人だけしかわからない。
本文中で、"ヒトはまた「ひとつ」になりたいと思い始めた"と書かれているが、ヒトを生物学的に捉えるとしたら元々みな同じである。生物学的に進化をするために目には見えない何かに取り込まれて、一度再構築されることが必要と考えれば、OSバージョンアップみたいなものと捉えられるだろう。
自分の中の意識の中に他の意識が混じっていたら「怖い」と本来なら思うはずだが、圧倒的に自分たちとはかけ離れた大きい力の元に身を委ねることは恐怖よりも安心感が勝る(神様に祈るみたいなイメージ)
だからこそ、箭納倉では人が神隠しのようなことに遭っても自然に受け入れることができるのだろう。

今の自分をこれは自分だって言えますか?と問い、刻々と変わりゆく世の中に対して何を信じていけばいいのか、何であれば変わらないものなのか、と人が心の底のほうでなんとなく感じている不安を露わにしている本だと思った。

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