見出し画像

【圧巻20000字】奇書好き必見『教皇ハドリアヌス七世』訳者あとがき公開!

「冴えない中年作家がある日突然教皇になって宗教改革を始める」。そんな「なろう小説」のような内容が話題の奇書『教皇ハドリアヌス七世』(コルヴォー男爵/フレデリック・ロルフ)の刊行を記念して、大野露井さんによる「訳者あとがき」を公開します。

奇人作家「コルヴォー男爵」とは、どのような生涯を送った人物だったのか?
『教皇ハドリアヌス七世』とは、いったいどのような内容の「奇書」なのか?
あとがきのボリュームは、圧巻の約20000字。
またとない大盤振る舞いの機会ですので、ぜひ本書購入の参考にご覧下さい。



幻の教皇――訳者あとがき

『教皇ハドリアヌス七世』は、教皇が強硬に強行して恐慌を来す小説である。と、思わず早口言葉を披露したくなってしまうのは、主人公が坊主であることからの連想だろうか。ともかく、おどけずにはいられないくらい、突拍子もない筋書きではある。

ジョージ・アーサー・ローズはロンドンの屋根裏部屋で飼猫のフラヴィオだけを友として暮す挫折した男――青年から中年になりかけている――で、自分の才能を信じてはいるが、やりたいことは何一つ上手くゆかず、このままでは何者にもなれないのではないかという不安と闘いながら、空きっ腹を抱えて、手巻きの煙草など吹かしている。百二十年まえの小説ではあるが、現代にもいくらでもいるような人物で、おまけにワクチンを射った右腕が痛むというのだから、ますます最近の風景のように思われてならない。引用される新聞の切抜きなど読んでみると、確かに二十世紀初頭の不穏な空気が漂ってはいるが、しかし世界情勢など、やはりいつでも不穏ではないか。
そこへ訪ねてくるのがカトリック教会の幹部、コートリー枢機卿とカーリアン司教である。二人は、ローズがかつて不透明な理由で神学校を追い出され、聖職者への道を断たれてしまったことを過誤と認め、二十年を経たいま、埋め合わせをしたいという。翌日、ローズは晴れて神父となったが、それはほんの序曲に過ぎなかった。というのも、目下コンクラーベが難航中のバチカンに、ほとんど観光気分で訪れたローズは、自分でも知らぬ間に教皇に選出されていたのである。ローズは運命を受け入れ、ハドリアヌス七世が誕生する。新教皇は破天荒で型破り、いや突飛で滅茶苦茶といったほうがよい。その原動力は博愛の精神か、はたまた復讐心か。その道行きは聖道か、はてさて邪道か。革新と保守がせめぎ合い、陰謀渦巻く教会組織を舞台にひたすら驀進するハドリアヌスに、次々と刺客が襲いかかる……。

ひとまずあらすじを記してしまったのは、それが決して複雑なものではなく、大部だが読みやすい小説でもあるので、内容や主題について紙幅を割く必要はないと思うからである。むしろ読者に知ってもらいたいのは、荒唐無稽な展開はもちろん、ひょうきんと荘重が同居する凝りに凝った文体に彩られ、さらには実験精神に満ちた構造を誇る、つまりはきわめて完成度の高い小説である『教皇ハドリアヌス七世』が、かなりの部分まで自伝的であるという驚くべき事実のほうなのだ。もちろん作者のロルフには、コンクラーベの白羽の矢は当たらなかった。その意味でロルフは、教会と和解できなかったローズなのであり、鬱憤を抱えたまま、独り浮世を漂うことを余儀なくされた崖っぷちの芸術家なのであった。ともすれば深淵に吞み込まれそうな魂を救済するには、どうしても『教皇ハドリアヌス七世』という幻想的自伝小説が書かれる必要があったのである。


天職を見つめて

コルヴォー男爵としても知られるフレデリック・ウィリアム・ロルフは、一八六〇年七月二十二日、ロンドン中心部のチープサイドに生れた。チープサイドとは元来「市場」の意で、その名にふさわしい活気ある通りに、ロルフ一家はピアノを製造販売する商店を経営していたのである。
一族はケント州の出で、高祖父ロバートはすでに楽器職人を生業にしていたという。次代のウィリアムが当主となると一家はロンドンへ移り、事業は拡大した。楽譜の販売や、自動演奏ピアノに関する特許が充分な収入をもたらしたので、その子ニコラスは道楽に作曲や劇作をし、経営は片手間であった。だが油断の代償は大きく、フレデリックの父、ジェイムズの時代に商売が傾くと、これを立て直すことは誰にもできなかった。商会はいまや大手製造会社の代理店に過ぎず、事務員が二名と調律師が一人いるだけであった。それでも一八五九年にはジェイムズも妻を迎え、翌年には長男フレデリック・ロルフの誕生と相なった。
ロルフの少年時代については、ほとんど何もわかっていない。ただ極端に走りがちで、直情径行なところがあったという証言が残るのみである。もっとも十四歳になったロルフが、これといった理由もなく学校をやめてしまったことは、それである程度まで説明がつくかもしれない。
この頃には、ロルフはすでに信仰の虜となっていたらしい。それは冷静な内省からくる信心というよりも、演劇的のそしりを免れない熱狂であった。してみればロルフの崇信が、英国で一般的な英国国教会ではなしにローマ・カトリックへと向かったことも頷けるのである。荘厳にして華美な儀式、聖母への渇仰に代表される情緒性、聖人たちの殉教によって贖われる祝祭の恍惚─ そういったものをこそロルフは求めたのであり、そうである以上、本家カトリックとの距離においてその存在意義を誇示する国教会やプロテスタント諸派では、まったくもって退屈だったに違いない。
もっとも、すぐに俗世を捨てたわけではない。生徒であることをやめたロルフは、教員の助手として、翌年には学校に復帰している。自分とほとんど年齢の変わらない教え子のなかにはお眼鏡にかなう少年たちもいたが、とくに可愛がっていたリアドン兄弟がテムズ川で溺れた事件は、この時期のロルフに相当の打撃を与えた。『教皇ハドリアヌス七世』にも美しい若者の溺死が描かれていることは象徴的であろう。
 二十歳で教師として一人立ちしたロルフは、生来の気難しさもあり職場こそ転々としたものの、とくに小さな子供たちにものを教えるのが上手く、評判は上々であった。英語、ラテン語、フランス語、歴史、算数、宗教と幅広く受け持ったが、課外で絵や音楽も進んで教え、とくに後者については合唱隊を組織してコンサートを開くほどの熱の入れようであったという。また一八八〇年には初の著作となる『タルチシオ』を出版しているが、三世紀の少年殉教者を讃える、若い読者向けのこの小さな詩篇が、リアドン兄弟をはじめ少年たちに捧げられていることは驚くに当たらないだろう。
ロルフの教師としての経歴は、一八八四年には早くも頂点に差しかかる。新しい職場は東部リンカンシャーのグランサム校で、寮長を兼任したロルフの年収は五十ポンドとなり、経済的にも余裕ができた。それ以上に重要なことに、おそらく初めて、尊敬できる上司にも出会ったのである。それが校長を務めていたハーディで、オックスフォード大学で古典を修めたこの学識ゆたかな人格者は、ロルフの数少ない友人となった。『教皇ハドリアヌス七世』にストロング博士として登場する人物である。
そのままグランサムに残り、ややカトリック的な解釈に偏った聖書の授業などしながら、合間に書き溜めた詩や小説を出版する─ そんな、学者でもあり修道僧でもあるような、いかにも英国らしい文人教師として余生を送るという未来も、ロルフにはあり得たわけである。だがそうはならなかった。快適な環境にあればこそ、カトリックへの憧れはますます募った。極論すれば、それは信仰の問題ではなかった。ロルフにとっては、俗世をきっぱり捨てて坊主になるということが大事だったのである。そのためには国教会から離れねばならなかったし、グランサムも辞めねばならなかった。天職を自覚したロルフにためらいはなく、一八八五年のクリスマスに、オックスフォードで改宗を申し出ると、年明けには堅信礼を済ませた。

夢にあぶれて

春になってロンドンへ戻ったロルフは無職で、神学校へ入る目処も立っていなかった。だから同じ建物に、バーミンガム近郊のオスコットにあるセント・メリーズ神学校の生徒で、目下療養中だった十五歳のエドワードと、その弟レジナルドが暮しており、兄弟の父親であるスローター弁護士から家庭教師を依頼されたことは、ロルフ流に言えば間違いなく天啓であった。似た境遇にある生徒を次々に見つければ、収入を確保しつつ、カトリックの人脈
を広げることもできるはずである。
だが早速打った広告に返事をよこしたビュート侯爵が求めていたのは家庭教師などではなく、新設予定の聖コロンバ大聖堂附属合唱学校の校長であった。合唱隊を率いていたこともあるロルフはもちろん二つ返事で受諾したが、結果は惨憺たるものであった。侯爵のお膝元オーバンは北端スコットランドのなかでも辺鄙な土地であり、ロルフは入学予定の子供たちを世話係の一家のもとへ送り届けるなどの雑務にこき使われた挙句、肝心の学校がいつまでも完成しないので、次第に一家と侯爵の板挟みとなり、そうこうするうちに計画そのものがご破算となったのである。所詮は貴族の気まぐれな道楽に過ぎず、巻き込まれたロルフこそいい面の皮であった。
それからしばらくは家庭教師の口もかからなかったが、ようやく拾ってくれたのがニューカッスルのリデル家であった。古いマナー・ハウスに住み込みで、障害のため外で学ぶことのできない息子の家庭教師をしたロルフは、敬虔なカトリック教徒の裕福な一家と暮し、さながら貴族の気分であった。
そして一八八七年十月、ロルフはついに神学校入学を許された。スローター氏かリデル氏の推薦によるものと思われるが、ある司教が保証人を買って出てくれたことで、前述のセント・メリーズ神学校に迎え入れられたのである。神学校で生徒として学ぶ傍ら、附属の普通学校で教鞭を執るという条件であった。
オスコット神学校とも呼ばれるその施設は、十九世紀半ばには英国カトリックの中枢と目され、「聖職者たちのオックスフォード」とまで称されたが、ロルフの入学した頃には名声も翳りつつあり、普通学校に至っては間もなく閉鎖の憂き目を見ることになる。だがそれも、わずか一年足らずで放校となるロルフには関係のないことである。
文学に明るい生徒たちを可愛がり、一緒になって雅語や古風な綴りの研究などしながら、一方では剃髪(トンスラ)を授かり、修道も順調と思われた。問題は趣味のほうも順調だったことで、聖人図を描くことを好んだロルフは、作品が完成するとこれまた愛好の写真術で記録に残そうと、ちょいちょい街へ出ては機材を調達するのであった。ここでロルフは、みだりな外出を禁ずる校則を堂々と破っただけでなく、窃盗罪まで犯している。なぜなら機材をすべて「つけ」で買ったロルフは、当然のように代金を踏み倒したからである。それでいて悪びれる風もなく、いまひとつの趣味で蒐めた海泡石のパイプに、大きな袋から煙草を詰めてぷかぷか吹かしているのだから始末が悪い。
それでも放校処分は、ロルフに言わせれば青天の霹靂であった。剃髪も済ませ、教典もたっぷり暗記している模範的な見習い僧を、「不適格」という曖昧な理由で放り出すとは何事か。ロルフは自分の憤りを理解してくれる人々の親切に縋った。別の神学校への入学許可を得るための嘆願書をエジンバラの大司教宛に提出してもらったり、次々と居候をさせてもらったり、またそれぞれの地域の文壇とつながりのある人物の知己を得て、雑誌に詩を掲載してもらったりしながら、いまは雌伏の時とばかりに次の機会を待ったのである。
そして一八八九年十二月、ロルフはローマへ発った。希望どおり、スコッツ神学校への入学を許されたのである。こんどの条件は、将来エジンバラで聖職に就くことであった。この学校はそもそも、スコットランドのカトリックの若者を、欧州本土の風土に親しませるという目的で設立されたのである。
まさに「捨てる神あれば拾う神あり」を地でゆく人生であるが、困ったことにロルフは、拾われたからといって心機一転、心を入れ替えるような人間ではない。払暁から始まる勉学と祈りの忙しい日課こそきちんとこなしたが、二時間ほど捻出できる自由時間は詩作に充てて憚らなかった。それは文学者としては正しい態度かもしれないが、神学生としては問題行動である。本来であればその二時間も内省に割くべきであるのに、世俗的な愉しみに耽るとはどういう了見か。校長のキャンベル神父に苦言を呈されたロルフはしかし、憮然とするばかりであった。
いったん臍を曲げてしまうと後戻りできないのも、ロルフの生涯を貫く性質である。スコッツで自分は生活の資を得ることを阻まれた、とのちにロルフは述懐しているが、むろん詩による収入など一銭もなかった。挙句の果てには、またしても近所の商店でつけを溜め、学校にまで差し押さえがきた。ロルフはいつの間にか三十歳になっていた。まわりの神学生よりずっと年長である。それなのに傍若無人な言動を重ねていては、いくらエジンバラ大司教のお墨付きがあっても無駄であった。要するにロルフは皆に煙たがられ、結果的にはわずか四ヶ月でまたしても放校と相なったのである。
かくしてロルフの夢は破れた。手前勝手な、規則を守れない人間が組織から弾き出されるのは当然という気もするが、この二度の放校と、その後も続いたカトリック教会からの排斥は、『教皇ハドリアヌス七世』に結晶する怨嗟の源となったのみならず、ロルフの余生を決定づけたのである。身も蓋もない言い方をすれば、ロルフは逆恨みの人生を歩んだのだが、そもそものところで誤解もあった。英国のカトリック教会は、もはや異端視されるような存在ではなかった。つまりかつてのような秘密結社的な性質はなくなっていたのだが、ロルフはまさにそのようなものに憧れ、信仰告白と共に、何かしらの特権階級に仲間入りできるものと期待していたようなのである。そこへ退屈な現実を突きつけられ、しかも爪弾きにされたことにロルフは絶望し、憤慨したのであった。
的外れな思い込みの裏には、幼稚なほどの純粋さがあった。若い頃から教師を務めていたとはいえ、早くに学校を中退しているロルフは、同年代の仲間と過ごした期間が極端に短く、人間関係に対してきわめて未成熟であった。
小さな生徒たちの扱いが上手かったのは、もとより本人の性質が子供に近かったからでもあろう。カトリックの神秘に魅せられた頭でっかちの子供のままロルフは年齢を重ね、浮世を生き抜かねばならなかったのである。

コルヴォー誕生

身分と住まいを失ったロルフに手を差し伸べてくれる教会関係者はまだ残っていたが、施せばいくらでも受け入れ、いつの間にか当然の権利としてさらに多くを求めるようになる相手への親切など、そう長く続くものではない。
そのなかでロルフをことに甘やかし、再生の機会を与えてくれたのが、スフォルツァ゠チェザリーニ公爵夫人であった。スコッツ神学校で夫人の親類にあたるマリオの隣室だったロルフが、年の功で何かと相談に乗ってやっていたことを感謝され、庇護を受けることになったのであった。
公爵夫人はカロリーネと呼ばれたが本来はキャロラインで、英国出身である。れっきとした貴族の血筋だが、父が小間使いに産ませた子であった。夫の公爵も嫡男と認められはしたが婚外子であり、人知れぬ苦労の多い夫婦であったのかもしれない。ともかく晩年にさしかかった夫人は神学校を追い出された同郷のロルフを不憫に思い、ローマ南方の町ジェンツァーノ・ディ・ローマにある城に、しばらく滞在するよう勧めたのである。
喜んで誘いを受けたロルフが、この自然ゆたかな活気ある町でどのような日々を過ごしたのかは定かではない。だが城内の蔵書でイタリアの歴史や文化について熱心に学びながら、町では地元の愛らしい少年たちに案内を頼んだり、写真のモデルになってもらったりと、充実した時期であったことは間違いないようである。これらの経験は、後述するように、ロルフの重要な作品にも活かされることになる。
だが最大の収穫はといえば、やはりコルヴォー男爵というもう一つの人格の誕生であろう。イタリア貴族には慣習として、自家が所有する称号を、任意の者に一代限りで譲渡する権利があった。ロルフの場合がそのような正式な手続きを踏んだものなのか、あるいはほんの口約束によるものなのかはわからないが、いずれにせよロルフはこのときからコルヴォー、すなわち鴉を意味する高貴な名を手に入れ、思いつくままに、大貴族の末裔や、教会の権力者を敵に回して潜伏する旅人などを演じるようになったのであった。
イタリアから帰国したロルフは南部のクライストチャーチへ向かい、コルヴォーとして新生活を始めた。文学を続ける支えにと公爵夫人から届く幾許かの仕送りだけが頼りの生活基盤は甚だ不安定ではあったが、何かと世話を焼いてくれたグリーソン゠ホワイト夫妻の紹介で下宿にも納まり、芸術家として再出発したのである。とはいえ第二の人生も、以前のものとほとんど変わらなかった。数ヶ月に一度、雑誌に詩が採られた。カトリック教徒の偽善を糾弾するものなど、いくつかの挑発的なエッセイも発表した。相変わらず聖人図も描き、群衆のなかに自分の顔をいくつも紛れ込ませて、知人を不気味がらせた。写真術の研究も続け、とくにカラー写真の開発に熱中した。
だが身入りがなければ、遅かれ早かれ首は回らなくなる。周囲には公爵夫人である「祖母」からもらった金がまだ百ポンドあると吹聴していたが、実際にはすでに援助の打ち切りを通告されていた。相変わらず方々の店にはつけが溜まり、家賃も滞納していた。追い詰められたロルフは陽動作戦に出る。グリーソン゠ホワイト夫妻が市内に所有する別邸を、買い取りたいと申し出たのだ。実はロルフと夫妻とは軋轢を抱えていた。夫のニューヨーク出張中に、妻が自分を夕食に誘い色仕掛けをしたとロルフが主張して以来、すっかりぎくしゃくしていたのである。するとこの申し出は、貴族的なお詫びの印とも映ったかもしれない。
むろん査定額が一万ポンドを越えるような邸宅をロルフが買えるはずもなかった。だが世間の常識では、日々の払いにも困るような人間が家を買うはずがないから、不動産を取得するための手続きに追われているのだと言訳すれば、しばらくは誰も品物の代金の督促などしないという寸法なのである。実に驚くべき奇策で、政治の方面にでも進んだほうがよかったのではないかと思わされる。
だがここで待ったをかけたのがケインズ゠ジャクスン弁護士であった。義俠心に駆られたわけではない。休暇中に訪れたクライストチャーチで出会った多芸多才(らしい)男爵とはかなり親しくしていたので、よかれと思って売買手続きの代理人になろうと手を挙げたのであった。断れば怪しいから、ロルフも同意する。だが調べてみると、ロルフには財産らしい財産などまるでなく、しかも差し押さえにあった形跡まであるではないか。それに爵位というのも、どうやら疑わしいようであった。
露見と前後してロルフはクライストチャーチから姿を消す。家賃を滞納したまま夜逃げ同然、身一つの出奔であった。結果的にはずいぶんと時間を稼ぎ、色々な払いも踏み倒すことができたのだから、すべて狙い通りということになるのかもしれない。
 その後の二、三年のことは筆を省いてもよいだろう。一言で述べるなら、ロルフは懲りなかった。スコットランド北東部のアバディーンでは写真技師の助手となったがすぐに馘(くび)、家賃が溜まり、アイルランドの地所から金が入ると噓をつくも見破られ、寝巻きのまま下宿を追い出された。土地の司教に叙任を頼むも相手にされず、ロンドンへ逃げ帰る。法曹界に進んでいた弟からの援助を断り、折りよく教会から依頼された宗教画に精を出すが、天罰覿面というべきか、代金を払ってもらえなかった(とは本人の談)。お次は北ウェールズのパンタサフという小村に修道士オースティンを名乗って現れ、フランチェスコ会に転がり込むが、中世の薬品の研究に熱中しすぎたため追い出されてしまう(これも本人談)。そして同じくウェールズのホリウェルでは、こんどは祭壇画の制作を依頼されたが、またしても約束どおりの報酬を得ることができなかった。というのもロルフはまず百ポンドを要求し、相手が首を縦に振らないと、違約金と称してさらに千ポンドを吹っかけたのである(これはどうやら本当の話)。
こんなことではいつ浮浪罪や詐欺罪で収監されてもおかしくはないし、野垂れ死にの可能性も多分にあり、とてもではないが見ていられない。だが豈図らんや、あれもこれもと手を出したロルフの蛮勇が、ついに報われる時がきたのであった。

『トト物語』の短き栄光

雑誌『イエロー・ブック』の名は、世紀末の芸術に関心ある向きにはおなじみであろう。オーブリー・ビアズリーを美術担当に擁し、まるでオスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』の残響のなかを揺蕩うような詩・小説・批評・挿画が甍を争う唯美的な黄表紙は、いわば頹廃文学の金字塔たるユイスマンス『さかしま』の胤が、海峡を越えて芽吹かせた徒花である。
一八九五年から翌年にかけて、ロルフはその雑誌の第七号、九号、十一号に、それぞれ二つ、都合六つの『トト物語』のエピソードを掲載したのであった。すでにワイルドの逮捕に連座する形でビアズリーが追放され、編集の全権はジョン・レインに移っていたから、『イエロー・ブック』は衰退期に入っていたわけだが、それでもこの伝説的な雑誌の一翼を担ったことは、ロルフにとって記念すべき飛躍である。
『トト物語』はイタリアの田園を舞台に、トトをはじめ土地の少年たちが自ら見聞きした宗教的な物語を「旦那様」に向けて語り直すという、一種の説話集の体裁をとっている。物語に登場するのは確かにキリスト教の神であり聖人たちなのだが、そのふるまいは権威的でもなければ抹香臭くもなく、むしろ古代の神々のように気まぐれで人間らしい。それが美しい自然を背景に、瑞々しい少年たちの口から伝えられることによって、爽やかでどこか享
楽的な、愛すべき連作に仕上がっている。
だが『教皇ハドリアヌス七世』と並んでロルフの代表作となっている『トト物語』も、決して著者に大きな恩恵をもたらしたわけではなかった。一八九八年に六篇が一冊にまとまって出版されると、それなりに評判もよく、ほどなく続巻を出せることになった。万年おけらのロルフとしては、それよりもレインの出している雑誌の編集者か、せめて査読者になって安定した収入を得たいというのが正直なところであったが、頼んでみてもなしのつぶてだし、本も出さないよりは出したほうが実入りはよい。こうして一九〇一年、前作に二十六ものエピソードを追加した完全版である『自らを象って』が上木されたのである。しかし、このときロルフの手に渡ったのはわずか十ポンドで、その後『トト物語』関連で得た収入をすべて合わせても、結局は三十ポンドにしかならないのであった。
因みに、これに後述する『ボルジア家の歴史』がもたらした五十ポンド弱、それに『ルバイヤート』の翻訳で得た二十五ポンドが、ロルフが生涯で獲得した印税のほぼ全額である。合計すると百ポンド余りとなるが、これは賃金・物価ともに急激に上昇しつつあった一九〇〇年頃の感覚では、一般的な事務員の年収にも満たない額である。
ともあれ、聖職者としても画家としても物にならなかったロルフは、作家として一応の出発をしたのであった。そしてすぐに筆禍に巻き込まれることになったのである。
顚末はこうだ。一八九八年、ロルフは『ワイド・ワールド・マガジン』に「いかにして私は生き埋めになったか」と題する記事を発表した。媒体はいわゆる実話誌で、つまり与太話を集めているわけだが、ロルフの寄稿もご多分にもれず、ローマの神学校を追い出されたコルヴォー男爵が、大嫌いな蜥蜴が服に飛び込んだショックで気絶し、意識が戻ると埋葬されていた、という三面記事的な内容である。罪のない法螺といえばそれまでだが、これに食ってかかったのがアバディーンで刊行されている『デイリー・フリー・プレス』紙であった。同紙はわずか一週間ほどのあいだに三度も記事を掲載し、ロルフが男爵などというのはまったくの詐称で、実際には一文なしの平民であることを暴露したうえで、いかにロルフが相手かまわず住居や仕事の斡旋を懇願し、そのくせ一向に生活を立て直そうともせず、しばしば着のみ着のままで放り出されてきたかという「事実」を、誇張や歪曲を交えて執拗に報じたのであった。しかも記事は複数の地域紙やカトリック系の新聞にも転載され拡散したのである。
「アバディーンの攻撃」の名で英文学史の片隅に刻まれることになるこの事件を不気味なものにしているのは、何と言っても執筆者が不明であることだろう。誤謬を含みつつもかなり詳細にロルフの行動を把握しているだけでなく、これまでにロルフが教会関係者に送った手紙の抜粋やら、かつて一悶着あったグリーソン゠ホワイト夫人の皮肉たっぷりの証言など、敵はかなりの材料を握っている。これまでロルフに迷惑を蒙ったり、批判されたりした人々が手を組んで、一斉にしっぺ返しをしたとしか思えないのだ。
この攻撃がロルフにどれほどの衝撃を与えたかは、それが『教皇ハドリアヌス七世』の中心的な事件として利用されていることからも明らかであろう。ただ、これは穿ちすぎた見方かもしれないが、すべてがロルフの自作自演という可能性も考えられなくはない。少なくともロルフは記事に書いてあることをすべて知っていたのだし、笑いものにされたとはいえ、この記事によってロルフの名もすこしは世間に広まったのである。

ならぬ僧侶の裾算用

一八九九年、不惑を迎えようとしていたロルフは、相変わらず惑いに惑い、ロンドンへ戻ってきていた。かつて家庭教師をしたスローター少年もいまや立派な弁護士となっており、その紹介で、北部ハムステッドの屋根裏部屋に暮すことになった。瀟洒な邸宅の建ち並ぶ、多くの文人に愛された地区だが、ロルフの暮しぶりについては贅言を要しない。というのも『教皇ハドリアヌス七世』の序章に、それは細大漏らさず描かれているからである。
食うや食わずで書き続ける日々が続いた。息抜きは毎年一月、大学の試験期間にオックスフォードを訪ねることであった。グランサム校時代の盟友であったハーディが教壇に立っていたのである。ロルフは秘書という体で答案の採点を手伝い、幾許かの謝礼を得つつ、友と語らって羽を伸ばした。
この生活を始めた頃にロルフが取りかかったのが、一部では評価の高い『ボルジア家の歴史』である。ロルフは常に色とりどりの自作の系図を持ち歩き、綿密な調査を重ねてはすこしずつ更新していった。一九〇一年秋に完成した歴史書は、むろん専門家に言わせれば多分に不正確であったが、絢爛にして独特な文体にこだわった、ひたすら歴史のロマンを搔き立てるような筆鋒は、いっそ歴史書のパロディと呼びたくなるようなものである。書き出しだけ訳出してみよう。

偉大なる家門は一世紀のあいだに不滅の誉を得てまた失う。芽を吹き、蕾を出し、花を咲かせ、果実をなす─ 無名であった者が時代の覇者となり、決して消えぬ名を歴史に刻むのだ。それが百年もすると、次に表舞台に躍り出た者に場をゆずって、群衆のなかへと降りてゆき、取るに足らぬ、名も知れぬ隠居として余生を送るのである。

なんだか『平家物語』や『方丈記』にも通ずるようなのがおもしろいが、気の向くままに筆を執ったというわけではなかった。依頼主でもある版元のグラント・リチャーズからはあれこれ修正の要請があり、問題が解決するまで原稿料は払わないと言ってくる。ロルフも最終的には従うものの、それまでは精一杯に反抗、いや逆上し、それでは契約違反だ、報酬は倍にしてもらう、などとやり返すのであった。出来上がった書物は黄金の紋章が箔押しになった重厚な年代記で、のちにロルフを援助した者のなかには、この書物の熱烈な読者もいたのである。ボルジア家とは言うまでもなく、世俗化した教皇の代表格であるアレクサンデル六世を輩出した、欲望と陰謀の渦巻く悪名高き一族であり、主題の点で『教皇ハドリアヌス七世』を先取りするものがあるようだ。
ロルフはまた一九〇三年、唯一の訳業となる『ルバイヤート』を、ジョン・レインの出版社から上梓している。同書は十一世紀ペルシアの詩人、ウマル・ハイヤームの四行詩集であるが、原典には不確定の部分が多い。フィッツジェラルドによる一八五九年の英訳にしてもそれが忠実なものかどうかには相当の疑義があるが、異邦の神秘への憧憬をいやましに強めていた世紀末に至って、同書はすっかり唯美派の枕頭の書となっていたのである。数年に一度は新訳が出るという状況にあって、ロルフも流行に乗ったに過ぎない。ニコラによる仏訳からの重訳という点には新味があったものの、ほとんど評価されず、売上を見込んでいたアメリカでは市場に出ることさえなかった。
そもそも『ボルジア家の歴史』も『ルバイヤート』も、版元からの依頼によって稿を起こされたものであり、その意味では不完全燃焼というべき状態が続いていたのである。そこでロルフは『ドン・レナート』なる小説を起草してみたものの、執筆は遅々として進まなかった。(この作品は最晩年にようやく形になったが、出荷直前に回収され稀覯本となった。紆余曲折を経て再刊されたのは一九六三年である。)オックスフォードで過ごす季節はどうにかやり過ごせるが、ロンドンへ帰れば相変わらずの貧乏暮しである。後援者もひとり、またひとりと去り、先行きは暗かった。つまり作家としての不満と、生活者としての不遇がいよいよ深刻の度合を深めていたこの時期に、ロルフが新たに書き出した小説こそ『教皇ハドリアヌス七世』だったのである。
それはこれまでの人生のすべてを反映させ、また反転させる儀式であった。だからこそロルフはこのときコルヴォーという贋男爵の名を捨て、「FR・ロルフ」と署名したのであろう。それはフレデリックの略号であり、かつ神父(ファーザー)の略号でもある。言ってみればロルフは、生れつき聖職者の資質充分だったのであり、何も理想の自分になるのに教会の力を借りる必要などなかったのだ。巻頭の宣言文の日付が、四十四歳の誕生日であることも象徴的である。
ところで『教皇ハドリアヌス七世』を書き上げるまでロルフが露命をつなぐことができたのは、ひとえに訴訟のおかげであった。オーエン・トマスなる人物の依頼で、ロルフは大量の資料を整理してその要点を文章化するという地道な作業に時間を割いていたのだが、充分な支払いが得られないことに業を煮やし、裁判所へ訴え出たのである。ロルフが求めた金額は例によって法外だったが、結審が長引くことはむしろ歓迎であった。というのは弁護士テイラーの機転のおかげで、裁判が終わるまで最低限の生活を保証するだけの給付金を得られることになったからである。
 明日をも知れぬ生活のなかでは、なまなかな覚悟で創作などできるものではない。グランサム校を辞してからというもの定収のないロルフがこの時期に原稿を量産していることは、いわば背理法でもって、その俊才を際立たせるだろう。『教皇ハドリアヌス七世』を書き上げたロルフは、手綱を緩めることなく、翌一九〇五年には早くも『ドン・タルクイニオ』を出版している。これは十六世紀を舞台に、殺人の濡衣を着せられた貴族が名誉挽回のために奔走する物語だが、主人公が息子のために書き遺した草稿をひょんなことで手に入れた語り手が、これを英訳したという凝った演出で、作家として経験を積みつつあったロルフの巧者ぶりが存分に発揮されている。
非凡の芸術家をもって自ら任じてきたロルフではあったが、なかなか実績の伴わない状況では、大言壮語ばかりの畸人とのそしりを免れない部分があった。それがこの数年で、どうにか複数の小説に加えて歴史書や訳詩集も世に問うことができたのだから、ロルフもようやく溜飲が下がりつつあったのではないか。画家を諦め、写真術を放棄し、貴族の称号まで「返上」したロルフは、ここへ来てついに文学者として生きる臍を固めたものだろう。もちろんロルフのことだから、そんじょそこらの作家先生では満足できない。稀代の文豪として、富と名声をほしいままにすることを当然の未来として予見したはずである。聖職者になれぬ以上、芸術界の教皇にならねばならぬ。友人との他愛もない会話のなかで「億万長者になったらどうする?」と尋ねられたロルフは、間髪入れずに「教皇になるね」と答えたそうだが、それもあながち冗談ではなかったと思われる。

水の都の蜃気楼

ロルフが『教皇ハドリアヌス七世』の版元チャトウ&ウィンダスと交わした契約は、初版一千五百部に関しては印税免除、その後の増刷分については一冊一シリングを受け取るというものであった。これまでのように原稿ごと買い取らせるというやり方では、その場でこそ若干懐が潤っても、労作とは今生の別れである。一方、印税契約を結んでおけば、作品は少額ずつではあっても長期的に利を見込める財産となる――こともある。むろん印税がどんなに高くとも、売れなければ意味がない。そして残念ながら、ロルフの生前には『教皇ハドリアヌス七世』はさほど読まれなかったのである。
だがヒュー・ベンスン司祭のように、一読するなり熱烈な手紙を送った者もいる。ロルフより一まわり年下で、カンタベリー大主教という英国国教会の領袖を父に持ちながらカトリックに転向して世間を騒がせた、なかなかハドリアヌス的な人物である。二人は急速に接近し、白魔術を研究するなど同好の士として愉快に過ごしたが、やがて『聖トマス』を共著として出そうという計画が持ち上がった。これはむしろロルフにとって有難い話であったが、ベンスンの心変わりによって頓挫してしまう。ちょうどその頃、ロルフは例の裁判に敗訴しているのだが、傍聴していたベンスンが、そこから伝わる原告の人となりに愛想を尽かしたということらしいのである。なおベンスンは一九一四年、四十二歳で早世するが、評論、戯曲、児童文学のほか、恐怖小説、空想科学小説、歴史小説を量産し、しかも聖職者としても栄達をきわめ、ピウス十世の侍従にまで任命されている。見方によってはロルフのやりたかったことをすべてやったわけで、そのような二人のあいだで友情が続かなかったのも無理からぬことかもしれない。
一方、オックスフォードで出会ったピリ゠ゴードンとの友情は、もうすこし深いものであった。『ボルジア家の歴史』の愛読者である大学院生とロルフは意気投合し、ピリ゠ゴードンが創設したばかりの「聖ソフィア教団」なる秘密結社にも、ロルフはすぐに加入した。また、執筆の割合などについては様々な見方があるものの、二人には一九一二年に出版された『放浪者の運命』と、死後の一九三五年に日の目を見ることになる歴史小説『ヒューバートのアーサー』という二冊の共著もあり、実り多い関係であったことは疑いを容れない。
さらにこの頃、ロルフは『ニコラス・クラッブ』を書き上げている。同名の主人公は紛うかたなきロルフの分身であるから、かつてコルヴォー(鴉)であったロルフは、こんどは自らにクラッブ(蟹)の名を与えたことになる。世に出ようと足搔く作家が、ジョン・レインをはじめ実在の出版人を彷彿とさせる登場人物たちと駆け引きを重ねるこの小説には、ロルフが版元と実際に交わした書簡が散りばめられており、まさに私小説の王道と言えるものになっている。もともと蟹が好きだったというロルフ(蟹座である)にとってニコラス・クラッブはお気に入りとなり、他の作品にも姿を見せることになる。
一九〇八年の夏、ロルフはヴェネツィアへと向かうことになるが、これもピリ゠ゴードンとの縁であった。一家の客人としてウェールズのグウェアンヴェイルで過ごしたときに知り合った隣人の考古学者ドーキンズが、この愉快な男を旅の道連れにしようと声をかけたのである。費用の心配はないと聞いて、ロルフが断るはずもなかった。
英国に留まっていても展望はひらけそうもなかったし、かつて美しいイタリアで過ごした経験がロルフにどれだけ大きな影響を与えたかは言うまでもない。文明の爛熟が燻されたような香を放つ水の都に、ひょっとすると再生の契機が見つかるかもしれないのだ。だが読者諸賢もご想像の通り、そう簡単にはゆかないのであった。ドーキンズとはすぐに仲違いすることになった。幸い、別行動を決めたときにまとまった金額を渡してくれたので、しばらくは食いつなげそうである。それに英国にとんぼ返りしても仕方がない。こういう場合、ロルフの取る行動は決まっていた。あらゆる知人に無心の手紙を出し、誰かが引っかかると、当面はやり過ごす。すぐに金が入るからと滞在を一日延ばしにする。宿の主人の堪忍袋の緒が切れて追い出されたら、どこぞのサロンのパーティに潜りこんでサンドウィッチを頰ばり、ついでに新たな後援者を見つける。気が合えばしばらく居候させてもらえることもあったが、誰もが大邸宅に住んでいるわけではない。階段室でよければと、暖房もない石造りの踊り場で冬を越したこともある。
そんな環境にあって『全一への希求と追慕』を書き上げたことは驚きに価するだろう。自伝的な長編としては三作目となるこの作品にはヴェネツィアの英国人コミュニティが見事に活写されているが、それは自分を助けてくれた人たちの顔に泥を塗るも同じことであった。この種の小説を書くことは外国で暮す作家にとってはお決まりだが、他者のお情けにすがらざるを得ない生活様式にもかかわらず、遠慮会釈もなくこうした作品を書いたことは、ロルフにとって人間関係というものが芸術のまえにいかに小さな価値しか持たなかったか、ということの証拠であろう。この遺作が世に出たのは、没後二十年にして再評価の機運が高まった一九三四年になってからのことである。
すでに齢五十、いまさら堅気の仕事に就くようなロルフではなかった。むやみに顔が広いわりに無愛想で、妙にゴンドラの操舵術に長け、聖職者でも芸術家でもあるらしい人物を、周囲は仙人か何かのように眺めるようになっていた。だが霞を食べて生きるわけにもゆかないのである。晩年のロルフが方々へばら撒いた無心の手紙のなかには、脅迫めいた文言も少なくなかった。地元の少年たちをその方面の趣味の金持に紹介して、上前をはねるようなこともしていたらしく、評判はお世辞にもよいとは言えなかった。貧窮を見かねて嘆願書を提出してくれた者があって王妃から見舞金が届いたり、かつて敗訴した折の弁護士費用が帳消しになったりと、多少の幸運もあったが、それで生活を立て直すには至らなかった。いや、立て直すべき生活など、とうになかったのかもしれない。
一九一三年十月二十六日、ロルフの心臓は就寝中に止まった。『全一への希求と追慕』の主人公ニコラス・クラッブは、ぎりぎりのところで出版社から大金を受け取り、愛する男装の少女と抱き合って喜びを分かち合うという大団円を迎えている。ロルフはなんと皮肉な弔辞を、自らに呈したことか。この偏屈で無一文の作家が迎えた孤独な死を伝える簡潔な記事が、いくつかの新聞に出た。そのなかには、あのアバディーンの『デイリー・フリー・プ
レス』もあった。

再評価と固着

ロルフの再評価は、『チャタレイ夫人の恋人』で知られるD・H・ロレンスが『教皇ハドリアヌス七世』を絶賛し、「この小説はユイスマンスやワイルドの作品と違っていつまでも古くならないだろう」と述べたことを契機に緒についたとされるが、その記事が書かれた一九二五年は、A・J・A・シモンズが愛書家仲間のクリストファー・ミラードからロルフの存在を教えられ、『教皇ハドリアヌス七世』の初版本を手にした年でもある。
一読して作家の魅力にとりつかれたシモンズは、さらにミラードに見せてもった一連の手紙の写し、すなわち「ヴェネツィア書簡」として知られることになる、あけすけな同性愛的内容を含む手紙を読むに及んで、死後十余年にしてすでに忘却の淵にあったロルフの伝記を書こうと思い立つ。作品以外の資料がほぼ皆無という状態にあって、遺族や友人知人との面談や文通を重ね、すこしずつロルフの輪郭を浮かび上がらせたシモンズは、ついに一九三四年、『コルヴォーを探して』を世に問うた。
同書はシモンズの代表作というばかりか、ある作家の伝記が書かれる過程そのものを克明に縷述するという点で前例のないものとされ、伝記文学の傑作としても名高い。もっとも、冷静に読んでみれば伝記としては問題が多く、関係者がそれぞれに「私のロルフ」を語る一方で「平均的ロルフ」が抽出されることはないため、読後もコルヴォー探求は終わりそうもないし、記述も必ずしも時系列に沿っておらず、あえて韜晦しているような部分も少なくないのである。シモンズ自身が非常に知的で洗練された「主人公」として描かれている点に関しても、いまでは批判が少なくない。つまり『コルヴォーを探して』を読んでいると、それ自体がロルフの小説であるかのような気がしてくるのだが、これも類は友を呼ぶということなのだろうか。いずれにせよ本書をきっかけにロルフの埋もれていた作品も次々と刊行され、本格的なロルフ研究が幕を開けることになったのである。
ミリアム・ベンコヴィッツの『フレデリック・ロルフ――コルヴォー男爵』(一九七七)は、それから数十年のあいだに発掘された資料を惜しみなく盛り込んだ編年体の伝記であり、ひとまずの決定版ということができそうである。だが虫食い状態のロルフの経歴を、『教皇ハドリアヌス七世』をはじめとする自伝的な小説の記述で埋めようとするなど苦し紛れの箇所もあり、いかにロルフ究明が一筋縄ではゆかないかを示すものともなっている。
これらに加えて、良くも悪くもロルフの受容に不可逆的な影響を与えたのが、シモンズがその写しを読み震撼させられ、一九七四年になって公刊された「ヴェネツィア書簡」である。ここには、主に英国の商人でチェス・プロブレム作者としても著名だったチャールズ・フォックスに宛てた一連の手紙が収録されているが、ロルフはそのなかで自らの好みの少年像――十代後半で大柄――や、彼らとの行為――居酒屋の奥、酒樽の上での慌ただしい情交――をあけすけに記し、ヴェネツィアの自分のもとへ来ればそのような快楽が味わえるぞと誘惑するのである。
こうした書簡が作品をも凌駕する知名度を獲得したことは、まさに功罪相半ばするところだろう。「ヴェネツィアで少年専門の娼館を経営した転び神父」というような扇情的なイメージは、多くの好事家をしてロルフに向かわしめるに充分なものだが、一方でそのような側面ばかりが強調されれば、当然ながら作家として、いや人間としてのロルフの価値は測りにくくなろう。ワイルドの裁判が世間を騒がせてからまだ日は浅く、また英国では一九六七年まで同性愛は違法であった。つまり右のような受容の仕方は、ロルフを徒らに危険人物に祭りあげ、実像に近づくことを阻みかねないのである。現にロルフの弟で、よき理解者でもあったらしいハーバートも兄については寡黙を通しているが、それはひとえに兄を犯罪者のように語りたがる者たちへの警戒心ゆえであった。先に挙げたベンコヴィッツの伝記なども、教師時代のロルフと生徒たちの関係を過剰に穿鑿するようなところがあり、その点では野次馬的である。とはいえ年表に空白が多く、そこへ禍々しい噂が立てば、その醜聞でもって隙間を埋めようとするのが人情というものかもしれない。
いま噂と言ったが、実際ロルフの少年愛の様相は、これ以上なく曖昧模糊としている。なるほどロルフは同性愛者でもあったろうが、それ以上に徹底した自己愛者であり、オナニストであったろう。少年たちへの態度にしても、経済的な優位性を(貧しいなりに)笠に着て、相手を欲望の餌食にしたと言えばそれまでだが、「ヴェネツィア書簡」や小説の端々から読みとれるのは、年長の男性と少年とのあいだの、師弟関係にも似た理想家された「天ウラニ上アの愛」への憧れである。ロルフにとっては少年たちとの関係もまた、生活全般における古代信奉の一環に過ぎなかったのかもしれない。そもそも「ヴェネツィア書簡」は、まるで大人向けの『トト物語』とでも言いたくなるような筆致であり、有体な近況報告というよりは、宛先の人物を喜ばせて援助を取りつけようという魂胆で書かれた、創作を多分に含んだものと考えるべきであろう。死後に片手に余る書簡集が出版されているロルフは押しも押されもせぬ手紙魔であり、詩人のW・H・オーデンなどはその出来は小説以上と舌を巻いているほどである。もとより作中に発信や来信を散りばめることを創作の重要な手段としていたロルフの手紙の内容を、額面通りに受け取るというのはかなりナイーヴではあるまいか。
ただ一つ言えるのは、ロルフは間違いなく孤独であったし、それを望んでもいたということである。若い時分の交友関係が狭かったためか、あるいは生来の性質ゆえか、ロルフは他者にほとんど興味を持たなかった。庇護者を求めてサロンを渡り歩いたところなどは、ダンディでもありぺてん師でもあった画家のアラステアを思い起こさせるが、常に注目を浴びていなければ気の済まなかったアラステアとは違い、ロルフの場合は純粋に衣食住を求めていたのであって、仲間内での称賛などというものには冷淡なのである。
そういえば、アラステアを世に出したのもジョン・レインであった。その気になれば、ロルフはレインの周辺にいた世紀末の芸術家たちにいくらでも近づくことができたのに、そうはしなかった。それどころか、ロルフは一時期レインと同じクラブの会員だったにもかかわらず、私書箱に届いた手紙に目を通し、返事を書くとすぐに帰ってしまい、牡蠣とシャンパンを目当てに夜の街に繰り出すレインたちの輪には、決して加わろうとしなかったという。弊衣をまとって足早に出てゆくロルフを、ビアズリー、マックス・ビアボーム、ロバート・ロスなどの面々が横目で見送っていたとは、何とも奇妙な図ではないか。
家族についても距離のあったことは同様で、母エリザベスなどは終生息子を擁護し、特別な才能を授かった芸術家と断言して憚らなかったが、ロルフは教師となって家を出てから、家族とほとんど接点を持たなかった。そこには、決して裕福とはいえない実家に迷惑をかけまいとする、作家らしからぬ健気さも感じられるが、同時に、家族であってもロルフには他者の存在が息苦しかったのだろう。それでも、一九〇二年の父の死の前後には毎週のように実家に顔を出しているし、母と妹がブロードステアーズという海岸の町へ移り、少女のための小さな学校を開いた一九〇四年には、しばらく同居して二人を手伝っていたこともある。結局、そこでの生活にもすぐに嫌気がさしてしまうのだが、思春期の気難しさを引きずったまま大人になったロルフの憎めない姿が、こんなところによく現れている気がするのである。
空手形を切って金銭を得ることに奔走するうちに一生を終えたかに見えるロルフを曲者扱いすることは簡単だが、ロルフの時代は言うまでもなく、現代においても、芸術家はしばしばそのように生きることを強いられるのであり、ロルフの場合は作家としての名声に先んじてその生涯が注目されたがゆえに、その側面が強調され過ぎているきらいもあろう。だが文字通りに命を削って書き続けたロルフを、いったい誰が指差すことができよう。大部分の作品に加えて書簡集や著作目録も刊行され、研究も充実しつつあるいま、贋男爵にして幻の教皇の本当の実力が世に知らしめられるのを、阻むものは何もないのである。
日本国内に関していえば、世紀末の英国に精通し、ビアズリーに関する著作でも知られる河村錠一郎氏が、シモンズ『コルヴォーを探して』に加えて「ヴェネツィア書簡」を『ヴェネツィアからの誘惑』として訳出し、さらにはシモンズの著作を補うような『コルヴォー男爵 フレデリック・ロルフの生涯』を上梓されていることは僥倖ではあるものの、肝心の小説の翻訳が一つもないというのは決して歓迎すべき状況ではない。今回の代表作の出版がすこしでも事態を好転させるなら、まさに訳者冥利に尽きるというものである。
底本には初版の Rolfe, FR. Hadrian the Seventh, London: Chatto & Windus, 1904を用い、最新のペンギン古典叢書版(二〇一八)まで、いくつかの版を並べて校合した。本作には無数の古語、雅語が登場し、外国語も断りなく挿入されるほか、冒頭で主人公の造語癖が宣言されていることを思えば当然だが、いくつかの新語も――例えば「疑ぐりがり」と訳したsuspicacious のような─ 披露されている。さらには誤記、あるいは誤植と思われる箇所も散見されたが、読みやすさに配慮しつつ、なるべく本文の意に沿う翻訳を心がけた。なお聖書からの引用は、例外もあるものの、もっぱら新共同訳を参照した。いわゆる教会再一致運動を受けて、カトリックとプロテスタント双方の鑑賞に耐えるものとして刊行されたこの聖書が、本作にはふさわしいように思われたからである。

教皇ハドリアヌス七世
コルヴォー男爵 著/大野露井 訳
A5判・436 頁  ISBN978-4-336-07518-5
定価:税込4,950円 (本体価格4,500円)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?