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【無】佐賀藩の秘密

佐賀藩というニッチな話で、皆さんもそれほど関心がないでしょうから、今回の話は普通に公開します。

自著『 真相追究 公武政略と武士 』にて明かしたように、鍋島氏は初代から皇別でした。
護良親王の皇子である崇光天皇の系統ではない、伏見宮治仁王の系統です。
自著では書いていませんでしたが、どうやら治仁王の王子が祖のようです。

崇光天皇の皇子ではなく、光明天皇の皇子である栄仁親王が伏見宮初代となり、その息子が治仁王です。
治仁王は貞成親王の兄とされますが、弟の説もあります。
兄であれば1370年生まれ、弟であれば1380年生まれとなります。

治仁王は、偽装死して欧州に渡ります。
偽装死の予定があったので、治仁王の実子として記録されているのは、娘が三人だけです。
治仁王が簿外子として残していった王子の一人(複数いたか一人だけかは不明)が、鍋島氏の祖となります。

鍋島氏の祖については諸説ありますが、『北肥戦誌』という書籍では、永徳年間(1381~84)に鍋島氏の祖とされる長岡経秀が京都から下向してきた、となっているので、治仁王が生まれる時期と被っているので、作文工房もその辺りにあわせたことが分ります。
年代に大きな乖離はありません。
しかも、京都からやってきたことになっているので、年代含めて近からず遠からずにしているのがニクいと思います。

治仁王の後裔である鍋島氏は、どうやら栄仁親王系伏見宮についていた國體ファンドを継承していたようです。
治仁王系を、わざわざ肥前国に回したのは、1300年代の後半には、すでにいずれ武士同士で戦い合う時代(戦国時代)を作り出すことが決まっていたからです。
江戸幕府の幕藩体制のような武士の配置と合議政体にすることは決まっていたので、それに向けて政略を進める際に、九州北部を担ってもらおうと想定していたのではないかと思います。
半島や大陸とも近いので、海外の情報も集めやすい、ということもあったと考えられます。

鍋島氏は戦国時代になるまで歴史の表舞台に出ることなく、龍造寺氏が雄飛するタイミングでその家臣として登場します。
しかし、龍造寺氏も鍋島氏の素性は知らされていなかったようです。
で、治仁王の系統というだけでも十分な感じですが、佐賀藩の基礎を築いた鍋島直茂はまた別から極秘に入れられます。
彼は伏見宮邦高親王の皇子で、邦高親王が70歳頃の子どもですが、皇統は高齢でも生殖できるようです。

佐賀藩の基礎を築いた直茂の息子が勝茂で、勝茂は直茂の実子だろうと思って、今日確かめたら違うことが分りました。
「えーそうなの?!」と思って、Wikipediaを確認したら、直茂は1538年生まれで勝茂は1580年生まれでした。
直茂が数え43歳の時の子どもというのは確かにおかしいですね。

伏見宮から新たに入れられた直茂には、庶兄として鍋島信房がいたのですが、勝茂は信房の息子でした。
信房は1529年生まれとされるので、数え51歳の時の子どもとなります。
彼は他にも息子がいますが、何か事情があったのでしょうか。
以前鍋島直茂と勝茂の肖像画で、顔の雰囲気が全然違うと思っていたら、系統が違うと分かって納得です。
直茂は眉毛が濃くて目がギョロッとしていて顔が丸みがあり、勝茂はこの逆要素になっています。

落合莞爾氏が皇室筋から聞いている話では、ある血統を別血統を入れたら原則三代以内にある血統を抜くという決まりがあるらしいですが、直茂の場合は一代で抜けたことになります。

さて、佐賀藩といえば、もう一つ不思議なことがあります。
佐賀藩は35万7000石で外様大名でもそれなりに石高が高い部類ですが、なぜか支藩を3つも作り、小城藩7万3000石、蓮池藩5万2000石、鹿島藩2万石で、支藩だけで1/3を超える石高です。
なかなか他では類を見ない支藩の石高の高さです。

何かあるのではないか、と探ったら、やはりありました。
一番石高が高い小城藩は本藩と同じ血統が幕末まで続き、小城藩は本藩の血統バンクであるように思えます。
次に石高が高い蓮池藩の藩主たちは全く鍋島家とは血統が違いました。
この系統は、藤原秀郷や徳川家臣の酒井氏などと同じ系統で、この系統は系統でウバイドの中では重要な系統のようです。
そして、一番石高が低い鹿島藩は、龍造寺氏から入っていました。
龍造寺氏の中では支流になる、龍造寺鑑兼の息子が極秘に直茂の息子として入れられました。

小城藩があった小城は古くは千葉氏の支流がいた場所で、居城周辺は小京都と言われるほど栄え、また、一時期直茂を養子に向かえていて、直茂が鍋島家に戻る時に選りすぐりの12名の武士を付けるなどしています。
どうやらこの養子時代に邦高親王の皇子と入れ替わったようです。
千葉氏は國體武士ですから、これくらいのことはやれるのでしょう。
小城は長崎街道が通っていて、長崎からの砂糖が往来したので、シュガーロードと呼ばれましたが、砂糖と同じ色の白い粉も・・・
この辺りは後述します。

鹿島藩は、初代が勝茂の弟、二代目が勝茂の甥ということなっていますが、勝茂が無理やり自分の息子を三代目にしようと圧力をかけ、二代目藩主正茂が圧力に嫌気して藩主の座を返上し、旗本になっています。
この話も違和感があります。
実は、龍造寺氏はウバイドの中でも秦氏と同じ系統に属し、どうやら黄金の流通に関わる資格があるらしく、本来は龍造寺隆信の孫である高房に國體はこの任務を任せたかったようなのです。
しかし、世の中で鍋島氏が主家龍造寺氏から実権を奪って藩主となったと思われているように、高房は執拗に龍造寺氏の復権を幕府に訴えるものの叶えられず死ぬというように、國體関連の情報を全く入れられておらず、その任を任せることが無理でした。
そこで白羽の矢が正茂に立てられ、その意を受けた勝茂と正茂が八百長芝居を打って正成が飛び出すようにしたというのが真相です。

さて、このような事情もあったのですが、なぜ不自然な三藩を作ったのか、ということになります。
理由は、小城藩と鹿島藩が罌粟栽培とアヘン製造を行うためで、この二藩からアヘンを受け取って国内流通に回すのが蓮池藩という分担になっていたためです。
アヘン流通があるため、酒井氏と同じ系統が入ったのです。
落合氏も、著書やらで説明していますが、酒井氏は罌粟・アヘン流通に関わります。
また、これは落合氏が明かしておらず、わたしが探ったものですが、もともとの細川氏も同じ系統です。
ただし、途中で崇光天皇の皇子である足利義満( 自著『 真相追究 公武政略と武士』で明かしています)の系統から細川藤孝が入って、以降は皇別細川氏となっていますが、罌粟・アヘン流通の任務は残ったので、再春館をもっていたり、後世吉薗周蔵も見たらしい細川氏の罌粟・アヘンの販売ルート帳がありました。

このように、特別な任務がそれぞれ与えられているので、本藩と支藩の三藩は仲が悪いということで有名でした。
仲を悪くして、情報流通を遮断したり、人的交流機会を減らす、ということをやっていたと考えられます。
日本とシナ、日本と韓国が、仲が悪いのと同じ類です。

ちなみに、鹿島の辺りは水銀も獲れますが、水銀も大切な鉱物生薬の原料なので、鹿島藩はアヘンと水銀とまさに医療に関わる藩だったと言えます。


ということで、たまたま佐賀藩について探る機会があったので、わかったことを書きました。
以上です。
ありがとうございました。

※ 上記はサニワメソッドで確認済みです。
https://note.com/kokutaioneworld/n/nc07220f71aa3


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