歴史を学ぶ意味

ロシアが世界を脅かしている。冬季北京オリンピックという平和(?)な祭典が終わって間もなく、パラリンピックという平和な祭典が始まる前に、世界は緊迫感に包まれた。
ん?これは第三次世界大戦のはじまり?第一次世界大戦のときは〇〇で…あのときも〇〇だったよな…
見たことのある字面がつらつらとネットに上がっているのを目にした。

今の大河ドラマは鎌倉時代のおはなし。三谷幸喜さんの作品ということもあり、久しぶりに観続けることに成功している。まだ序章にすぎないが、聞いたことのある名前や地名が耳に入ってくる。

私は大学受験の社会は日本史選択。日本史が好きで1番得意としている科目であった。…つもりだった。あんなに必死に勉強したのに、暗記じゃなくてちゃんと話の流れでインプットするんだって意識していたのに、悲しいことにそれぞれのことの経緯をほとんど思い出すことができない。第一次世界大戦に関しては日本史選択でも綿密にやったのに思い出せない。鎌倉時代は日本史の専門分野なのに思い出せない。

よく学校で勉強するときに多くの人が思うのは、この教科やって何になるんだよ、である。私も1.5mmくらい感じたことはあった。歴史に関しては授業がすごくたのしかったし、感じる隙もないくらいだったけど。

あるとき先生が言った。
「歴史は将来同じ過ちを繰り返さないために学ぶのです。」
すごく納得した。この言葉を聞いてより歴史を学ぶことに対する楽しさを感じることができた。ちゃんと単語単語の暗記で覚えるんじゃなくて、物事の流れで捉えなきゃ意味がないんだ、とそう思った。

受験を終える頃には人並みに日本史のプロになっていたと思う。そしてこれからもそれを忘れない自分で居続けられると思っていた。


数年経った今、あの自信はなんだったんだろうかと深く思う。面白いくらいに知識が抜けていっているではないか。あの先生の言葉は正しいのだろうか。

ただ知識はどこかへ行ってしまっても、私の中に残っているものがある。それは「感覚」である。
あの出来事のときやばかったなあ、昔の人は突拍子もないことを考えるな、もっとみんなのこと考えて行動すればよかったのに。あの彼はなんかすごいことをしていたよなあ、今の時代にもいてほしいような良い人だったよなあ。

実際に、ネット上で今回のロシアの行動と第一次世界大戦を結びつけて発言しているのをみたり、大河ドラマを観たりしていると、その「感覚」が私の中でピキピキと動き始める。
ネット上の誰かの発言は間違いなのかもしれないし、大河ドラマもお話を盛り上げるために話を大きくしているのかもしれない。でもそれを目にした・耳にしたときに私の中の「感覚」センサーが動くことで、事の重大さを感じる。そしてそれが真実かどうかを調べに行ったり、今起こってる出来事自体の原因を調べに行ったりする。

そんなとき私は、歴史は「感覚」を身につけるために学ぶのだなと感じた。先生の言っていた言葉は間違いではないのだなと再認識した。


私が「感覚」センサーを作動できたのは、世の中に同じ歴史を知っている者がたくさんいるからである。世の中に10人しかその歴史を知らなかったら、世の人はその10人の発言を信じないだろう。そしてなんの「感覚」センサーも作動しないだろう。

今回のロシアきっかけで始まった世界の緊迫が起こっているのは、同じ歴史を多くの人が知っていることによるものが大きいと考えている。
歴史はみんなで学ぶべきものであると感じた瞬間だった。私も今回の動きについてしっかりと考えていきたいと思う。みんなが戦争のない世界を生きられますように。

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