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落語(58)誓い酒

◎一年の計は元旦にありーー。これまではなかなか踏ん切りがつけられなかったことも、年が変わったのを機に、心機一転やってみようかなという気持ちになるのが人情というもの。「よし、今年こそは絶対に○○をやめるぞ!」ーー新年の朝に力強く誓ったものの、なかなかどうして一筋縄で行かないのも、これまた人情のようでして…。

女房「おや、あんた起きたかい。随分とよく眠ってたじゃないか」
亭主「(目をこすりながら)ん、んー、ふぁ〜あ…あー、よく寝た。…今、何どきだい」
女房「もう、お昼だよ」
亭主「おお、そうかい。もう、昼かい」
女房「そら、いま福茶入れたげるから。こっちへ来な」
亭主「おう、正月だからな。まずは寝覚めに福茶を飲まねぇと。よしっ…(ちゃぶ台へ移動し)…と。じゃあかかぁ、一杯貰おうじゃねぇか」
女房「あいよ」
亭主「おっ、なかなかいい色の福茶だねぇ。こりゃあ、今年はいいことありそうだよ。うん、香りもいいや。(一口啜って)うん、うまいねぇ。五臓六腑に染み渡らぁ」
女房「ちょいとちょいと、何だいその言い方は。それじゃ、まるで酒呑んでるみたいじゃないか。あんた、今年から酒やめたんだろう?」
亭主「あたぼうよ。あんな物はもう二度と口にしねぇよ。あれは身を滅ぼすもんだからな。俺はあれが百毒の長だってことを、もう、でぇぶ前から知ってたんでい」
女房「何だい、その割には夕べのの刻までしっかり呑んでたじゃないか」
亭主「だっておめぇ、冷えるじゃねぇか。大晦日は徹夜で年越さなきゃいけねぇってのに、挙げ句っぱてに風邪しいてたんじゃお前、正月もへったくれもねぇだろ」
女房「だったら何も、酒じゃなくてもいいじゃないか。お茶でも味噌汁でもすすりながら、年を越しゃあよかっただろう?」
亭主「いやさ、普段はまずあんな時間に起きてるこたぁねぇだろ?だから下手に何か食やぁ、慣れてねぇから胃がびっくりしちまうと思ってよ」
女房「ふん、何だか知らないけどさ。やめるって決めた以上は、きっぱりとやめとくれよ」
亭主「あったりめぇよ、こちとら江戸っ子でい。やめるって決めたら、もうピタッとやめちゃうよ。(茶を啜り)ああ、もう世の中に茶さえあれば充分だな。なんで今までこんな身近な幸福に気付かなかったのかねぇ、俺は。よお、かかぁよ。幸せは足元にあるものだよ。人生、上ばかり見るんじゃなく、時には足元もかえりみることが大切だよ。いいかい、解ったね?」
女房「何だい、偉そうに」
亭主「ああ、そう言やぁ、さっき初夢を見たい」
女房「あら、元旦からさっそく見たのかい?でも、どうせ中身なんか覚えちゃいないんだろ?」
亭主「覚えてるよ。正月早々めでてぇ夢だい」
女房「あら、そうかい。で、どんな夢だい」
亭主「驚くなよ。まず富士山が出てきてな、それを俺が空から眺めてんだ」
女房「ええっ、富士山かい?そりゃあ、凄いじゃないか。でも、それを空から眺めてるって…あんた、まさか鳥になったのかい?で、何の鳥だい」
亭主「ふっふっふっふっ」
女房「なに笑ってんのさ…はっ、あんたまさか」
亭主「ふっふっふっふっ、そのまさかよ」
女房「鷹かい?ちょいと、あんた凄いじゃないのさ。富士山に鷹って、一富士二鷹じゃないの。で、茄子は出てきたのかい?」
亭主「あったりめぇよ」
女房「どこに出てきたんだい。あんたが鷹で、空から富士山を眺めてんだろう?じゃあ、何かい。富士山に茄子畑があって、そこに着地したってぇのかい?」
亭主「(人差し指を振り)チッチッチッ、甘いな。いったい、誰が鷹になったなんて言ったい」
女房「ええ、だってあんた空を飛んでたんだろう?」
亭主「もちろんよ。けど、決して俺が自力で飛んでたわけじゃねぇんだ」
女房「ちょいと、そりゃ、どういうことだい?」
亭主「こういうことだい。つまり、俺は鷹に捕まった茄子だったのさ」
女房「まあ、呆れた。あたしゃ、てっきりあんたが鷹になったとばかり思ってたのに。何のこたぁない、それに捕まった茄子だったのかい」
亭主「てやんでいっ。茄子だからって馬鹿にするんじゃねぇや。ちゃんと鷹に捕まって、空から富士山を見おろしてんだ。これが俗に言う、一富士二鷹三茄子じゃねぇか」
女房「ああ、そうだ。鷹に捕まって身動きがとれない茄子なんだから、これが俗に言う、“なすがまま“ってやつだ」
亭主「へっ、何言ってやがる。おう、だからかかぁよ、めでてぇだろ?」
女房「まあ、そうねぇ。何であれ、一富士二鷹三茄子なんだから、めでたいはめでたいやねぇ」
亭主「だろ?だったら持ってこいよ」
女房「何をだい」
亭主「酒だよ」
女房「あいよ、今持ってくるからね…て、ちょいと、あんた。お酒をやめた人間が元日から呑んでたんじゃ、元も子もないじゃないか」
亭主「ばか、冗談だよ。新年初冗談だ。正月なんだから、冗談の一つも言って楽しく過ごさねぇと仕方ねぇだろ。(茶を啜り)さてと、じゃあ何するかな…暇だから書き初めでもするか」
女房「書き初めは二日にやるもんだから明日だよ」
亭主「ああ、そうかい」
女房「そうだよ。大体あんた字なんか書けんのかい?あたしゃ、一度もそんな姿見たことないよ」
亭主「べらぼうめ、俺だって字ぃくらい書けら」
女房「へえ、いつの間に覚えたんだい」
亭主「おめぇは知らねぇだろうがよ、こちとら毎晩必死になって勉強してたんでい」
女房「へえ、そりゃ気付かなかったね。じゃあ、あんた文字が書けるんだね?いったい、何て書くつもりだい」
亭主「三河屋」
女房「え?」
亭主「三河屋だよ」
女房「何だい、そりゃ。そりゃ、あんたがいつも晩酌ん時に使う貧乏徳利に書いてあった酒屋の屋号じゃないか。なぁんだ、毎晩勉強してたってのは、そういうことかい。呆れたねぇ」
亭主「何だ、その言い方は。馬鹿にすんじゃねぇや。まだ他にも書けんだぞ」
女房「何て書けんだい」
亭主「上酒一合 四十文」
女房「そりゃ、どっかの屋台の壁かなんかに貼ってある品書きだろ?」
亭主「そうだ。どうだ、学びの種ってのはそこらじゅうに転がってんだぞ」
女房「何言ってんだい。そんなもの学んだところで、何の役にも立ちゃしないよ」
亭主「じゃあ、これはどうだ。少しは教養を感じると思うぜ」
女房「何だよ」
亭主「酒は憂いの玉箒たまははき
女房「そりゃあんた、酒をもっと呑め呑めっていうことわざじゃないか。やめた人間がそんなもん書いてどうすんだい」
亭主「じゃあ、これはどうだ。酒は呑んでも断るな」
女房「それを言うなら、酒は呑んでも呑まれるなだろ?もういいよ。さっきから聞いてりゃ、どれもこれもみんな酒絡みじゃないか。そんなだったら、いっそ書き初めなんかしない方がマシだよ」
亭主「そうかい。…じゃあ、寝るよ」
女房「ああ、寝てろ寝てろ。元日なんだから、大人しく寝てりゃいいんだ」
亭主「解った。じゃあ、寝るから酒くれよ」
女房「まだ言ってるよ、この人は。一体、あんたは酒を呑まなきゃ寝られないのかい?一から十まで何べんも数かぞてりゃ、そのうち眠くなるよ」
亭主「ああ、そうかい。一から十までね。解った。じゃあ、寝るよ。おやすみ」
女房「まったく、新年早々これじゃあ、先が思いやられるねぇ…(亭主を見て)ちょいと、あんた。数かぞえる時は黙ってかぞえるんだよ。いちいち声に出してたんじゃ、いつまで経っても寝らんないよ。まったく、はぁ…」
菊正「(壁を叩く音)五郎八つぁんよ、いるかい?俺だい、開けつくれいっ」
亭主「お、この声は菊さんじゃねぇか。野郎、独りもんだから、正月何もすることがなくて退屈してやんな。おう、かかぁ、開けてやれ」
女房「あら、もう起きたよ。ったく、正月くらい静かに過ごしたいもんだねぇ。はいはい、今開けますからね…(戸を開け)…あら、菊正さん。明けましておめでとうございます。今年もどうぞ、よろしくお願い致します」
菊正「もう、そういうまどろっこしい挨拶はいいからいいから。明けおめ!これで充分だ」
女房「まあ、随分と短くしたもんだねぇ。それじゃあ、ちょいと正月らしさが出ないんじゃないのかい?」
菊正「ああ、いいのいいの。江戸っ子はとにかくせっかちなんだ」
亭主「おう、菊さんよ。わざわざ新年の挨拶をしに顔を出してくれたのかい?顔に似合わず、相変わらず律儀だねぇ。じゃあ、俺もひとつ言わせてもらわぁ。(手を挙げ)明けおめ!ことよろ!」
女房「あら、この人までそんなこと言ってるよ。何だい、その『ことよろ』ってのは」
亭主「今年もよろしくの略だよ。そんなこと二度も言わせんじゃねぇや」
女房「だったら、最初からそう言やぁいいじゃないか。ったくもう、二人とも粗忽そこつなんだから」
亭主「おう、菊さんよ。まあ、こっちへ上がんねい。今、福茶淹れてやるからよ」
菊正「ああ、いいよいいよ、そんな気ぃ遣わなくて。それより五郎八つぁん、めでたく年もあらたまったことだし、(徳利を掲げ)景気付けに一杯やろうじゃねぇか」
亭主「いいねぇ、菊さん気が利くねぇ。ささ、こっちへ上がって座んねぇ。よお、かかぁよ。熱燗でやるからよ、この酒ちょいとつけつくれ」
女房「駄目だよ、あんた。もう新年の誓いを忘れちゃったのかい?…あのね、菊正さん。心遣いは嬉しいんだけどさ、うちの人は去年でもって、きっぱりとお酒はやめたんだよ。だからさ、気持ちだけ貰っとくから、悪いけどこれは菊正さんひとりでやってくれないかい。今、お燗したげるから」
菊正「あれ、そら本当かい?五郎八つぁん、もう金輪際、酒は呑まねぇのかい?」
亭主「あ、いやその…そんな事言ったような気もするし、言わなかったような気もするし…よぉ、かかぁよ。俺ぁ本当にそんな事言ったのかい?おめぇの空耳かなんかじゃねぇのかい?」
女房「言ったよ。あたしの目を見て、あんたはっきりと誓ったじゃないか。…そういう訳だからさ菊正さん、この人には一滴も呑ませないどくれ。福茶飲ませときゃ、もうそれで充分だから」
菊正「なんだそうかい、つまんねぇなぁ。まあ、そういう訳なら無理に勧めるわけにもいかねぇ」
女房「あいよ、菊正さん。ちょうどいい塩梅にしといたげたよ(酒を差し出す)」
菊正「おう、済まないねぇ。酒は人肌、熱くもなしぬるくもなしってね。よしっ…(呑む)…うん、うまいねぇ。やっぱ正月は酒だねぇ。どれどれ、もう一杯…(呑む)…ああ、幸せだねぇ。やっぱ、これをやんなきゃ一年が始まんないよ。どれどれ、もう一杯。かけつけ三杯だ…(呑む)…くぅーっ、なんだか全身の血が浄められたような気がするね。六十兆個の細胞が生まれ変わったような気がするよ。どうだい、五郎八つぁん。俺、顔色が良くなっただろ?」
亭主「…う、うん。ま、まぁな」
菊正「だろ?へっへっへっ、めでたいねぇ。こいつぁ、春から縁起がいいや…(呑む)」
女房「あい、菊正さん。湯豆腐だよ」
菊正「おっ、来たねぇ。豆腐百珍なんて言うけどさぁ、やっぱ王道は冷奴か湯豆腐なんだよ。おお、すごい湯気だねぇ。さしずめ玉手箱だよ。うぅん、匂いもいいや。これをこう、杓子しゃくしでヒョイとすくってさ。でもって小皿に移して、その上に生姜なんかちょこんと乗せちゃってね。で、端っこの方をちょいと欠いてさ、タレに充分浸して、ふーっふーっ、熱いうちに頂く(頬張る)。うんっ、旨いねぇ。でもって、そこへ追い討ちの熱燗を…(呑む)…うんっ、こりゃ絶妙な組み合わせだよ。お互いがしっかり自分の個性を主張しながら、それでいて決して相手の持ち味を殺していない。いや、それどころかむしろ相手の味を引き立てている。こりゃ最高の肴だよ、なあ五郎八つぁん…あ、もうやめたのか。じゃあ、五郎八つぁんの分も俺が代わりに呑んでやるからな…(呑む)…ういぃ〜、ひっく。いやぁ、しかし五郎八つぁんよ、今年はどうも幸先がいいねぇ」
亭主「(羨ましげに見ながら)…ん、んんん…(仕方なく茶を啜る)」
菊正「おお、飲め飲め、もっと飲め。お茶は体にいいからな。その点、酒は駄目だよ。こんな物は毒、毒。正月でもなきゃ、年中呑むもんじゃないよ…(呑む)…くぃーっ、正月だねぇーっ!」

 なんてんで、五郎八の気も知らずに菊正は一人ですっかり正月気分。いくら新年の誓いで心機一転断酒したとは言え、元来が浴びるほど酒好きの五郎八ですから、元日からこんな風に目の前で見せつけられたんじゃ堪ったもんじゃありません。案の定、菊正が帰ったあとの五郎八は、まるでアヘン中毒者のように半狂乱状態。手は震えるわ、脂汗は出るわ、幻覚は出るわでもう大変。見かねた女房、どうにか救いを求めようてんで、亭主を引きずりながら近くの禅寺へと駆け込みまして…。

女房「ほら、あんた、しっかりしな。もうすぐお寺さんだから」
亭主「(震えながら)ゔぅぅぅー…て、寺だとぉ?寺に行けば酒をたらふく呑ましてくれんのかぁ…」
女房「何言ってんだい、そうじゃないよ。こんな時こそねぇ、あんたみたいな煩悩まみれの人間は、徳の高いお坊さんに学ぶべきなんだよ。いいかい、あの人たちはねぇ、普段から酒も呑まなきゃ煙草も呑まない、魚だって食べないのに、愚痴一つ言うことなく毎日立派に生活してんだよ。あんたも、そんな姿を見て少しは見習ったらどうだい。(手招きし)さあ、ほら早く。何をそんな魚が腐ったみたいな目ぇしてんだい、みっともない。そら、歩いて歩いて…さあ、着いたよ。まずは本堂にお参りしておくよ。(合掌し)今年一年、どうかこの人がお酒を口にしませんように…よし。あっ、ほら見てごらん。広間で、お坊さんたちが大勢集まって何かやってるよ。きっと正月だから、この辺りのお寺の住職が集まってきて、みんなで座禅会か何かやってんだよ。さあ、もっと近くへ行って見てみるよ…(覗いて)おや、どうやらそうじゃないみたいだねぇ。何か食べたり飲んだりしてるよ。ああ、わかった。正月だから、みんなでおせちでも囲んでるんだ。きっとあれは精進料理だよ。そいで、お茶か白湯でもって質素にやってるに違いないよ。偉いねぇ。あんたもあの人たちの、せめて爪の垢でも煎じて飲んだらどうだい」
住職「おや、誰かと思えば五郎八さんにお清さんじゃないですか」
女房「あら、これはご住職。昨年は大変お世話さまでした。本年もどうぞ宜しくお願い致します」
住職「ああ、こちらこそ宜しく。少し暗くなってきましたのでね、元日詣の方も今日はもう来ないだろうと思っていましたが。お二人で揃ってお参りとは、これはこれはご苦労さまです」
亭主「(虚ろな目で)あ、どうも、ご住職…明けおめまして、ことよろもお願いします…」
住職「これはこれは、なかなか変わった挨拶ですなぁ…おや?何だか五郎八さん、だいぶ顔色が冴えないようですが。どこか具合でも悪いんですか?」
女房「実はそのことなんですけどねぇ、ご住職。うちの人ったら、今年からきっぱりお酒をやめるって決めてたのに、目の前で他人ひとが呑んでる姿を見てたらもうこの有り様で…そこで修養を積んだお坊さんの尊い姿を見れば、少しは感化されるだろうと思って連れてきたんです」
住職「はっはっはっ、左様でしたか。それはそれはご苦労で」
女房「ちなみにご住職、あちらで皆さんお集まりのようですけど、あれはやっぱり精進料理で…?」
住職「ああ、もちろんそうですよ。うちは禅寺ですからね。殺す時に逃げる物は、いっさい口に致しません」
女房「はあ、やっぱりそうですか。どうりで徳がお高いわけで。じゃあ、あの飲んでいらっしゃる物も、もちろんお茶か何かで…?」
住職「いやいやいや、あれは般若湯ですよ」
女房「般若湯?…ああ、漢方薬か何かで」
住職「いやいや、何のことはない。つまりは酒ですな。正月ですからねぇ、ちょうど仲のいい坊主でもって集まって、みんなで楽しくやっていたところです。そうしましたら、いささか催したものですからね。かわやへ行こうと思いまして、表へ出てきたところです」
女房「ああ、なるほど。そういうことでしたか。ははははは。お坊さまもお酒を召し上がられるんですねぇ…」
住職「もちろん。坊主だって人間ですからねぇ、たまには頂くこともあります。ま、あくまで名目上は“薬“ということですがね。はっはっはっ」
亭主「(血走った目で)ご、ご住職…お、お願いです…一滴でいいですから…は、般若、般若湯を…」
女房「駄目だよ、あんた。ここで呑んじまったら元の木阿弥だよ」
亭主「は、般若…般若…」
女房「いいから行くよ、ほらっ。早くっ、このうんつくっ。…おほほほほ。ではご住職、お邪魔致しました。あたしたちは、これで失礼致します。…(歩きながら)ああ、危なかった。これじゃ何のために来たんだか分かりゃしないよ。それにしても、まさかお坊さんもたしなむもんだとは思わなかったねぇ。般若湯だって。なんだか般若に睨まれそうな気がして嫌だねぇ」
亭主「(手を伸ばし)あうっ、は、般若…般若湯っ…」
女房「ちょいと、あんた。やめな、みっともない。いい加減、般若湯のことは諦めたらどうだい。…あら、嫌だ。いつの間にか三河屋の前まで来ちゃってたよ。これじゃ、馬の前の人参だ。さ、あんた。ほら、早く行くよ。ほらってば」
亭主「た、頼むぅっ。ちょっとでいいから般若を…さ、酒を呑ましつくれぇっ…」
女房「(引っ張って)もう、このぉっ。駄目だったら駄目だよ。こらっ、こらってば」
亭主「た、頼むよぉっ。呑まねぇと、こっちも身がもたねぇんだよぉ。一口でいいから頼むよぉ」
女房「駄目だよ、駄目駄目。あんた、ここで誘惑に負けて身を滅ぼす気かい?」
亭主「その逆だよ。呑まなきゃ身が滅んじまうんだよぉ。な、頼むから一口だけ呑ませつくれい。今回だけ、今回だけって約束するからよぉ」
女房「ったく、しょうがないねぇ。本当に今回だけって約束するかい?」
亭主「おう、するする、もちろんだよ。この際、神仏に誓ったって構やぁしねぇよ」
女房「あら、随分と大きく出たもんだねぇ。そんなこと言って、ちゃんと責任取れんだろうねぇ」
亭主「あたりめぇよ。もし今後一滴でも呑みてぇなんて口にした日にゃあ、そん時ゃ俺ぁ、潔く腹切るよ」
女房「なに、腹を切るって?じゃあ、やっぱり駄目だね。今日は呑ませないよ」
亭主「おいおいおい、待っつくれ。そりゃどうしてだい」
女房「だって、腹を切る前には必ず、酒を呑むじゃないか」

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