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姉:浅はかな思いで短歌を趣味とする

私は気が向くとたまに短歌を作る時があります。そもそもなぜ短歌を作ろうと思ったかと言うと、作った短歌をどこかに応募してそれが印刷されれば、自分が死んでもその短歌はどっかには残る(国会図書館とかね)と思ったからです。あと私は何かを創る才能が小さい頃から全くなかったので、とりあえず何かを創って誰かに認められることで、コンプレックスを解消しときたいと思ったのもあります。逆に言えば短歌なら作れるかも、と思ったのです。
なので応募するときは、まず選んでもらえそうで、かつ最終的に印刷されて国会図書館に収められることになりそうな投稿先を選びました(それがダ・ヴィンチの「短歌ください」)。ただ留学先で作ってた時は掲載されたかどうかを確認する方法がネットしかなかったので、毎日新聞の加藤治郎欄に投稿しました(加藤欄は掲載内容を加藤治郎さん本人のツイッターで確認できた)。

短歌を作ってた時期はおおまかに分けて2015年冬~2016年春と2018年秋~冬の2回ですが、どちらも「世界って何だろう」みたいな壮大すぎる悩みに端を発して「自分の存在意義って・・・」みたいなモードに入っていた時期という共通点があります。この「存在意義って」モードを解消するために「国会図書館に残ろう」という発想になったのでした。その他就活中も「会社に入社するも社会になじめなくて病み、家に閉じこもって夏を過ごす自分」をテーマにした短歌を作って遊んだりしていましたが、就活への憎しみがあまりにも前に出すぎて支離滅裂な上、内定取れたら作ったものが全部薄っぺらく見えてきたのでデータは抹消しました。その中だと唯一「広大な時間資源と思ってた 深夜は年々枯渇していく」というのだけ、後で読み返してもやや共感できました。しかし内容がなさ過ぎて何でこんな短歌記録に残したんかなとは思いました。ESが書き終わらなかったんでしょうね。

以上のような感じで大学入学以降短歌を作るようになっていたのですが、結果としてやはり自分には特にこの手の才能がない(そしてそれ以上に根気と向上心がない)ということがわかっただけなので、鬱モードの解消には役立ちつつもコンプレックスの克服等には無力でした。ただ「やめてしまった」挫折感を持つことになるのも嫌なので2年以内くらいにはもう1度作りまくる時期を呼び寄せたいというのが現在の心境です。要は今は作ってないのです。作りたくないわけではない、というかむしろ作りたいが。

まあこうして結局「作る」側にはなりきれなかった私ですが、一方で読むことはコンスタントに続けられています。短歌は31文字しかないので読むのが非常に楽なのです。ただ歌集は印刷されてる活字の文字数に対して値段が高いので(文字数で値段つけたら不利過ぎるので当たり前だが)、よっぽどじゃない限り軽率に買わないようにしています。私はちゃんと連作(30首とかのまとまりで読むとストーリーができてるみたいなやつ)として読むほうが好き+短歌は縦書きが好きなので本当は歌集で読みたいけど、一首ごとで良いなら今はネットでも結構読めるし、ネットで読めば一首評とかの形でプロが解説してくれてることもあるのでこれはこれで良いかなとか適当に自分を納得させています。

短歌は小説を読むより楽で、それでいて自分の中に残りやすくて、その気になったら自分で作れないこともない(しかし作ってみるとあんま作れない)という、手軽さ深みが絶妙な感じのコンテンツ。作るのは無理としても読むことは続けそうだし、読んでればまたいつか作るときが来るのではないかという希望的観測。

ちなみに私が短歌の「読む」側になったきっかけは高校生の時穂村弘をどっかで立ち読みしたことです。ていうか今時短歌始める人なんて9割穂村弘が入口じゃないだろうか(適当な憶測)。

ラケットで蝶を打ったの、手応えがぜんぜんなくて、めまいがしたわ

という短歌が衝撃的で、この人マジの天才だなと思ったのでした。『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』に収録されているはず。その後にわか穂村弘ファンとして適当に短歌を読む中で、

ジン・トニックのシャワーのなかで 知ってるぜぼくのカミソリ使っただろう

という短歌に感動して、にわか加藤治郎ファンに転じました。これは『サニー・サイド・アップ』という歌集に収録されているらしいですが絶版なので手に取ったことはないです。加藤治郎だと

洋梨を抱えて何処をあるいてる さきにめざめたほうがさみしい

というのも好きでした。これが収録されている『噴水塔』は池袋のジュンク堂に普通に売ってたので買いました。『噴水塔』を読んでいた頃はとにかく大学の講義を聞いていなくて、何書いていいのかわからないコメントシートに加藤治郎の短歌を書いてお茶を濁す奇行に出ていた記憶。こんな感じで穂村弘、加藤治郎を読んでた頃は作る発想にはならなかったのですが、その後伊舎堂仁の『トントングラム』を読む機会があり、そこで

「気絶したことある?」ないよ「するべきよ」「キスが全然」「変わってくるわよ」

という短歌を見て、「私もこういうのやりたいかも」的な気持ちが出てきたという記憶があります。

短歌は1首3秒くらいで読めて、それでいて深みがある良質なコンテンツ。しかも割とマイナーなジャンルなので、短歌を読む人になることで手軽に読書家風の空気を醸し出せます。作れればなお良し。短歌をよく知らない人に対して限定で手軽に芸術家風の空気を醸し出せます(最もそんなモチベーションで本当に作れる人がいたら凄いが)。皆も暇なときに適当に短歌をググってみるべきです。わたしと同じくらい浅はかな思いで短歌を趣味にする人が出てきたらなお良し。

#短歌