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フランス人の働き方は。

私は日本の会社からこちらに出向しています。

『海外赴任とは?』的な問いをぶち上げてみたものの、
そんな大きな話が自分に出来るわけがないと今更ながらに気付き、
穴があったら入りたい気持ちでいる。

私の会社の同僚には、インド、メキシコ、フィリピンといったフランスとはおよそかけ離れた、かつ厳しい環境で成果を出そうと奮闘する人たちがたくさんおり、
尊敬の念が止まらない。
そんな彼らが日々出くわす問題と、世界でトップクラスの先進国の一つに駐在する私とでは抱えている課題の種類がまるで違うのです。
難易度の問題ではなく、種類の問題です。
そんな彼らと私を一緒くたにして『海外駐在』で括るのはナンセンスだなと。


同じ感覚で、私は『日本人は〜』と括ってネガティブな熟語をつけたがるタイプの言説がとても苦手です。
その大きなカテゴライズは、本当に何かを表し得るのだろうか。
大風呂敷広げすぎてない?

もちろん、なにか知らないことについて学ぶ時、
全体のフレームから捉えて細部に行く、というのは王道ですよね。
まずはフレームを知ること。一旦仮でもいいから色をつけてみる、というのはひとつのやり方だと思いますし、私もそのやり方を好みます。
ですが、そのフレームは細部を知ると線の引き方を誤っていたことに気付く、ということが起き得えますし、私自身はそうであることが多いと感じます。
そして、その線の引き直し作業は楽しく、なにかを自分の言葉で語れる状態がやってきます。

ということで、無理な背伸びはしようとせず、
私はこの国で感じたことを等身大で書けばいいだけだと開きなおります。
お前はフランスしか知らないじゃないか。
それでいいのです。

さらに言えば、
私はあくまで自分が働く会社と、そこで共に働くフランス人のことしか知りません。
そんな私が『フランス人の働き方は〜』と、あたかも全部を知ったかのように話すのは、どうなんだろうなと。

よく知らないことをさも分かったかのように話してみたり、
表面的な出来事や見え方に反応したりすると、
人を傷つけたりすることがありますね。
傷つけないにしても、私はそういうのを見てて気持ちよくないんです。
上手く言えませんが、剥き出しの無知が目の前で大声を出している感じ、といいましょうか。



フランスも随分涼しくなり、私が住む地方はほぼ毎日雨天。
残念ながら日本もフランスもラグビーW杯で敗れてしまい、あれだけ試合日に盛り上がっていたアパート上階の住人も鳴りをひそめ、平常を取り戻しつつあります。


もう少し昔話を振り返ろうと思いましたが、それはnoteをはじめた目的ではないことに気づき、自己紹介も混ぜつつ、今感じていることについて書こうと思います。
今日は、いまの自分の仕事の環境について。



駐在員は、概して日本の親会社へのレポーティングをはじめとした”連絡係”の役割を持っています。
同時に、出向先の課題を定義し、解決に導くことも求められます。
そこでは、自分が取り組みたい課題(仕事)を提案して動いたり、
社長をはじめとした上司のオーダーを受けて動くことになります。
よって、複数の課題解決が同時並行で進み、やっていることも常に変化します。


私は元来飽きっぽい性格のため、
このように変化のある毎日を送れた方が自分には合っているなと感じます。
また、取り組むべき課題が次から次へと現れるため、
成果を出せなくて悔しい、力不足を痛感する時がたくさん訪れます。
ですが、納得するまで動くことが大事だと割り切っているので特に後腐れはしません。自分に負けてサボらなければOK、くらいで。

日本にいた時は、
上司や先輩に何かを頼んで動いてもらうという仕事の仕方が非常に不得意でした。
上の人には頼み事ではなく成果を持っていくべきである、
と勝手に思ってしまっていたからです。

こちらに来て、自分にはその能力が足りていないと気付かされました。
目的はあくまで成果を出すことですから、
1人でどうにかすることは1つの手段に過ぎません。
そして、国内勤務時と比較して圧倒的に時間が足りない中、なりふり構わず、
持てるものは全て使って仕事をこなしていかないと自分がもたなくなる、
またはせっかく来たのに何も残せずに帰ることになるのでは、
と思いはじめました。

そう思ってからは、
自分の役割の範囲で言うべきことをしっかり伝え、なにかをお願いすることを前提に仕事を設計するようになってきました。たとえ相手が社長であっても。
むしろ上の人であればあるほど影響が大きくなるので、これは大事です。
このあたりは自分でも成長を感じることができた点です。

目上の人だからと言って、言われたことを妄信することも自分に禁じています。
これはフランス人の同僚たちの働き方を見て学ばせてもらいました。

彼らは、相手の年齢、役職に関係なく、
打ち合わせの場でとことん自分の意見を言います。
たとえそれが、社長が出席するような大きな会議であっても関係ありません。

いえ、「言います」なんてかわいいもんじゃないです。
ぶちかましてます。それも長々と。気持ちよさそうに。もう恍惚としちゃってる人もいて見てて笑えてきさえします。
こういう弁論の能力はとても重要視されているように感じます。
結論や提案がない人が多いのも事実ですが。笑

社長が出ている会議という時点で、日本人の私にはその場は会社としての
『意思決定の場』であり、『議論の場』ではない、と思い込んでしまいます。
が、彼らにはそういう考えは毛頭なさそうです。
良いとか悪いとかを言いたいのではなく、そういうものだということです。

なんでなのか、答えはよくわからないのですが、きっと長い歴史の間、数えきれないほどの異民族、異文化との衝突と融合を経験した結果、違いを乗り越えて妥協点に到達するために話し合うことはとても重要だったんだろうなと想像します。
この国ひとつとっても、まるまる族、ばつばつ族がやってきてなんとか族が住んでいた土地を、、、という歴史の連続ですから。
「まあたくさん戦争もしたけど、上手くやっていくためにルールをつくろうよ」と最後はなるわけですから、そりゃおしゃべりDNAが出来上がりますよね。
その辺は縄文、弥生、渡来くらいの違いしかない我々とは場数が違いそうです。
私のフランス人上司の口癖の一つは、「On est d'accord?(わたしたち、意見合ってる?考えてること一緒だよね?の意)」です。ひとつひとつ話しながらお互いの理解のレベル合わせを丁寧にやっている印象を与えてくれます。


また、

・評価の為に上司の言うことを聞く時
・他責思考(人や環境のせいにする)の時

この2つの瞬間には大きな共通点があることに気づきました。
なんだと思いますか?それは、

その瞬間は気持ち良く思考停止できる、ということです。

それが正しいことなのか、
目的はなんなのか、
相手の立場になって考えてみる、

こういうことが疎かになり、自分に責任はない状態であたかも自分がやることに価値があるかのように錯覚する瞬間です。
せっかく多くの人が時間をかけて作った仕事が、誰の役にも立たなかった、なんていう結末を迎えるなんて悲しすぎます。

気持ち良く思考停止することが常態化すると、アイデアどころか、反対意見が出ない危険な組織が出来上がります。私たち日本人のように、組織化が得意な民族は特にこういうことに気をつけないといけないのでは、と思いますし、耳障りは悪くても、言ってることはまともな人が煙たがれるような世間にはなってはいけないんだろうな、と。
そうしないと、何十年前かのように戦争国家のいっちょ上がり、です。


恥ずかしげもなくえらそうなことを書いてしまいました。

私のような普通の会社員が入社時にそんなことをできる能力が最初から備わっている訳はなく、こんな生意気が言えるようになったのも、これまで出会ってきた多くの先輩・上司のご指導のおかげです。
謙遜の気持ちは全くありません。本当にそう感じます。


トップの写真は、昨年行ったスイス国境付近の景勝地アヌシー。
日本に住んでいると山がある風景は当たり前ですが、私の住む地域含めフランスではむしろ珍しい方かと。
山のある風景はどこか安心するものがありました。

心のどこかに日本がいることに気づきました。


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