Scene4

 「またのお越しをお待ちしております」というボーイの声を背中で聞きながら、わたしは店をあとにした。相変わらずの雨はわたしの気を滅入らせた。1時間で3万円。痛い出費であることは間違いない。毎日の食費を少しずつ削り、会社の同僚との飲み会などを断って捻出した3万円だ。わたしは、昔どこかで聞いた「射精は一瞬の死である」という言葉を思い出していた。1時間といいつつ、その実は一瞬の死のために、なけなしの3万円を使い果たしたわけだ。店に入ったときと同様のどうしようもない気持ちを引きずりつつ、わたしは雨の中、また帽子を目深にかぶり家路を急いだ。
 駅についた途端、嫌な予感がした。わたしの家は、ここから5駅。普通に考えれば30分もあれば家に着く。今はとにかく早く家に帰り、ベッドに身を横たえたかった。しかし駅はごった返しており、そこにいる人々は不機嫌な表情を隠さない。これは、電車が動いていない時に特有の駅の不機嫌な空気だ。駅員がしばらくは電車が動く見通しがないことを告げている。人々がいつになったら電車は動くんだ、俺は急いでいるんだぞと駅員に詰め寄る。駅員は申し訳ございません、まだ情報がございません、をくり返すだけだ。わたしは大きなため息をつきつつも、怒りは湧いてこなかった。むしろ冷めた目で怒れる人々を見つめていた。さっきまで一刻も早く帰宅したいと思っていたが、いまでは歩いてゆっくりと帰ろうという余裕すらあった。いつもだったら苛立つはずの電車の遅延だが、今日はなぜだか気分は明るかった。目深にかぶっていた帽子はバッグにしまい、再び傘を開き、わたしは歩きだした。