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車いすバスケ2024天皇杯③ ~余談~ KOMEHYOサポートチーム「ワールドBBC」と天皇杯

 去る2月3日、東京体育館にて『天皇杯第49回車いすバスケットボール選手権大会』の決勝トーナメントが開催され、note編集部も取材に行ってまいりました。

試合中のミーティングの様子。背番号12番はKOMEHYO商品部所属の冨永選手。


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 この取材の話が持ちあがった時、私が思ったのは、表舞台での結果を伝えるだけでなく、裏側にある社会人アスリートの努力も伝えられたらいいな、ということでした。
 そこで、コメ兵グループに所属する三人の選手にお話を聞かせてもらう時間をもらい、車いすバスケットとのかかわり方なども伺いました。この記事では、そんな彼らの横顔も含めて紹介していきたいと思います。

 なお、これは余談ですが、そんなふうに思った理由は、この記事を書いている私自身が、29歳から34歳までの5年間、今思えば本気の社会人アスリートだったからです。本編に関係がない情報なので、よかったらこの段落は読み飛ばしてくれてかまいません。そのままページを閉じてください。

“今思えばアスリートだった”
というのは妙な語感を持つと思いますが、やっているときは、「日本一を目指すならこれが必要!」と判断したことを必死でこなしていただけで、自分がアスリートという意識がありませんでした。アスリートというのは、大谷翔平や大阪なおみなど、もっと華やかなプロフェッショナルに与えられる称号と思っていました。
 私がやっていたのはアルティメット・フリスビーというマイナー競技でしたが、いくら競技がマイナーでも、頂点に立つ人たちはそれなりのスーパーマンばかりなので、その人たちと競り勝つにはかなりの努力を要しました。
 当時の生活をふり返ってみると、なかなかハードです。朝9時半から会社で仕事、夜の8時から皇居を二周(約10キロ)走り、また会社にもどって午前二時過ぎまで残業(広告代理店勤務だったので、下手すると徹夜もあった)。週末はチーム練習を、朝9時から日が暮れるまで。これに、朝7時からのパーソナルトレーニングが週一回加わります。基礎トレーニングが主ですが、心拍計をつけ心拍数200以上を維持しながら1分走るなど、吐きそうなトレーニングをこなします。ちなみに、これは苦しすぎて一分間持ちこたえたことが一度もありません。「嘘ん」と思ったらやってみてください(笑)。・・・いや、やらないでください、メディカル的に禁止されます(推奨の上限心拍は200ー年齢です)。もっとも、常人は心拍数を200まで上げられないのです、苦しすぎて。 
 結果として、チームは三度の日本一になりましたが、私自身は花形の選手からは程遠く、試合のレベルが上がれば上がるほど活躍できないし、努力しているわりにはチームについていくのが精いっぱい。
 それなのに、鍛えすぎて、書類を取るのに手を伸ばしたらブラウスの袖が肩から取れたこともあるくらいムキムキに。合コンで、「格闘技やってます?」と恐る恐る聞かれたこともあります。

ということで、まずこの記事を読んでいる人に、声を大にして言いたいことがあります。
それは、
間違っても、「マイナー競技だから壁は薄いだろう」「自分が今から始めても活躍できる」とか思わず、車いすバスケットボールの試合を見て頂戴ね、ということ。
 いかにマイナー競技でも地方予選を勝ち抜き全国大会に行くには、それ相応の努力は必要です。それと、「障害者スポーツだ」という視点もできるだけ捨ててほしいです。それはあくまでもスタート前の条件面の話であって、そこから先の、個々のプレーヤーが行っている競技に対する努力はまた別の話だからです。

ということで、前置きが長くなりましたが、車いすバスケットボールについて、そして今回お話を聞かせていただいた3人のプレーヤーについて、語っていきたいと思います。

KOMEHYOに勤務もしてくれている3人の選手。


みんなにも読んでほしいですか?

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