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[雑記]物語という名のなにかを愛す

今やっている作業がひと段落したので、久々に雑記でも書こうと思う。

2023年の9月は自分にとって、あたらしいチャレンジの月だった。
まず、長編を一本完成させることを直近の目標として、一度短編を書くことをやめた。短編を書かなくなったので、公募にも出さなくなった。
 
ただうまくなりたい、書き続けたいという欲求だけに忠実でいたために、どこに向かってどんなふうに走っていけばいいのかわからなくなった。
やみくもに短編を書き、そのいくつかを短編を公募に出していた。
賞が欲しいというより、短編が書き溜まったから力試しに出してみよう、くらいの気持ちだった。
だが、だんだんと、他者評価を欲しがるようになった。賞がもらえれば、”実績”になる。書き続けている生活のなかで、他者にもわかりやすい”成果”を得て、仕事量をセーブしながら書いている状況に対して”自分はよくやっている”という明確な印が欲しかったのだ。
  
とにかく寝る以外は仕事ばかりしていた去年のような働き方と比べて、結構だらけているなとか、ちゃらんぽらんな生活してるなとか、そんなことを身内に思われたくないという保身があった。そのせいで迷走してしまった。

迷走の末に、一本長編を書ききることを当面の目標にしよう、と決めたのが8月。そして、9月から長編のプロットを書き始め、今日やっとプロットが終わったというわけだ。
 
プロットは、今までほとんど書いたことがなかった。
掌編ならそのまま書き始めてしまうし、短編ならメモ書きみたいな適当なプロットで充分だった。一度書き切ってみて、あとからおかしいところを修正していく。構成自体がおかしかったら、書ききったあとに修正するので、修正に時間がかかっていた。
だから、今回はあらすじ、プロット、キャラクター・環境設定などの設定書を書き、全体の下地準備を十分にしてから書き出すことにした。

そんなわけで、9月はずっと、プロットを書いていた。(毎日は書けてないけれど、60時間くらいかけたかも)
 

初めて長編のプロットを書いて思ったのは、自分がどれだけこの物語を信じられるか、信じ続けられるか、作品の出来はそこにかかっているのかもしれないということだった。

このテーマで良かったのだろうか。
このエピソードじゃ弱いんじゃないだろうか。
キャラクターはもっとちがう性格のほうがいいんじゃないか。
そもそも、これって面白いのだろうか。……
そんなことを考えてしまったら、そしてそれに引っ張られてしまったら、長編は書き続けられない。


話は大幅に逸れて、わたしの小学生時代に遡る。
わたしは小6のときに日記をつけていたのだが、その日記に、こんなことを書いていた。

テレビのコメンテーターが言った。
「生きるということがこの世の中で一番重要なテーマですからね。生死以上に大事なテーマはないですから。」
でも本当にそうだろうか。わたしはそうは思わない。
人によっては恋とか愛とかのほうがずっと、生きることより大事なことだってあるはずだ。時には生きることよりも重要なことはきっとある。

小6の米家麦

 
我ながら、なんとクセのある小学生なのか。
(小学生のわたしは、司馬遼太郎や宮城谷昌光を読んだりする小学生だったので、書いていた文章はかなり変わっていた。とにかく敬体嫌いだった。何だか、あなたが分かりやすいところまで下りて行ってあげますよ、という感じがして嫌だったのだ。あと、敬体には本心が含まれてない感じがしたのも嫌な理由だった。もっと本気でぶつかって来いよと思っていた)

要は世の中への反発心だったのだろうと思う。絶対にこれしかない、これ以外にあり得ないと言われると、そんなはずない!と否定したくなる思春期だったのだ。といっても、今でもその意識は微かに残っているので、思春期のせいではなく、わたしの性格かもしれない。
  

話を戻そう。
自分の作品を信じ切れるか、ということが長編執筆において重要だと思ったのは、自分の場合、自分が考えていることに懐疑的なところ、他者の断定的な意見に懐疑的なところなどがあるために、作品を主観としてみたとしても、俯瞰してみたとしても、これが最良なんだと信じ続けられなくなりそうだという恐れがあるからだ。
     
もっと普遍的なテーマのほうが作品として評価されやすいのではとか、
作品として優れているのではなどという考えが頭をよぎりそうだな、と。
     
けれど、わたしの場合、それでも物語を信じて、信じ抜いて、これが今の自分の最良の選択なんだと主張する強い想いこそが、最終的には、作品の出来を左右するのかもしれない。
  
もしそうなのだとしたら、自分だけは、なんとしても自分の作品を信じ続けるんだぞ、という決意と戒めを込めて、この記事を書いて残しておきたい。

 
今までは脱稿したら作品を読み返すことはなかった。
自分にとって書き始めるということは、自分との闘争のはじまりだった。
自分自身との戦いに勝つ(書き終わる)と、その戦いの内容には興味がなくなる。
自分には、戦っていること自体が重要なことで、終わった戦いの記録にはまるで興味がなかったのだ。(今考えると、それを人に読んでもらいたかったとは、なんてひどい話なんだと思うけれど、当時のわたしは必死だった)
 

けれど、それでいいのだろうかと考え直した。優れた作品は何度もなんども読まれ、そして読み継がれていくものだ。それであれば、何度も再読されるに耐えうる物語でなければならない。
 
  
自分が描こうとしてるのはそういう物語なんだと信じ抜くこと。
誰に何を言われてもブレない強い想いのもとに作られていること。
それが、特に長編には必要なのではないかと思ったのだった。
 

初めての感情が湧きあがる。
今書いているこの物語を、大事にしたい。
書いてはすぐにしまってしまうような戦いの記録じゃなくて。
部屋に積みあがっていく紙屑のような文章じゃなくて。
何度も繰り返し読んでもらえるような、
何度も思い出してもらえるような、
丈夫な物語にしたい。


10月から第1章を書き始める。

たのしみだ。

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