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[読書ログ]9~10歳向けの児童書

またしても読書ログ。
もう立派な読書ログnoteと化しているが、まだ実力がないから仕方ない。
勉強のために今日も本を読んで感覚を養う。

この夏の間に創作童話をnoteにも載せられるようにがんばる。


先日書いていた物語を講評してもらったら、
「あなたはティーン向けを書いた方が合ってるかもよ」と言われてハッとした。
9~10歳を対象にしたおはなしを書いたのだけど、確かにテーマがちょっと難しいのと、モチーフが幼すぎたのと、説明文などの文章表現が年齢向きじゃなかった。

9~10歳の子は何を読んでるんや!と思って、いわゆるスタンダードと呼ばれる児童書・絵本・絵童話を借りてきたので、今回はその読書ログを。

どうでもいいことだが、自分が9~10歳の頃は、敬体で書かれた文章は物が分からないとばかにされているような気がしたし、第三者視点で書かれた話は共感性が薄くて物足りなかったし、生活童話と呼ばれる身近な話や、綺麗事みたいな話はあんまり好きじゃなかった。

かと言って、海外作家のザ・ファンタジーはページ数が多いし、シリーズ化して何冊もあるので、あんまり手に取らなかった。

ないなら作ればいいのか、と自分で自分用の物語を書き始めたのがちょうど9歳頃。
そのころは、児童コーナーは低学年の子どもがいつも騒いでいたので、年上の自分は何やら恥ずかしくて近寄れなかったから、もっぱら一般コーナーで、図書館で江國香織や村山由佳、司馬遼太郎や宮城谷昌光なんかを読んでいた。

今考えるとだいぶ変わった子どもだった。


というわけで、発行から十数年以上経ってある程度評価が確定している、優れたおすすめ絵本・童話の中から今回は3冊。

今回15冊くらい読んだのだが、やっぱり名作と呼ばれるものは、本当に素晴らしくて、心震える。

ある教授の話でも、何十年くらいでは、人間の脳はそうそう変わらないから、名作は名作のままであり続けるのは必然であり、当然だと言っていた。本当にそうだと思う。

読み込めば読み込むほど味わい深いのは前提で、何となく何十冊読んでも、ふしぎと頭の中に強くイメージが残っている。

いいなあ、人生で一度でいいから、こんな素敵な物語が書けたら。


がんばろう。


かしこいポリーとまぬけなおおかみ

作:キャサリン・ストー 絵:若菜珪 訳:佐藤凉子


あらすじ

おおかみは、くいしんぼう。いつも、女の子のポリーを食べたいと思っている。
でも、ポリーは、おおかみを説得したり、自分を食べる前にまずパイを食べたら?などと言って、パイを食べておなかいっぱいになったおおかみは、ポリーはまた今度にすると言い、なかなかポリーにありつけない。
あるとき、おおかみが動物園の檻の中に捕まってしまい、かわいそうに思ったポリーはあの手この手でおおかみを助ける。
そうすると、今度はおおかみがポリーをつかまえて、家に閉じ込めてしまう。ポリーがあまりにガリガリなので、太らせてから料理して食べることにしたおおかみは、太らせ方をお母さんに聞いてこいと言って家から出したとき、ポリーは家に帰って、もうおおかみのところには戻らない、というお話。

感想

ポリーが淡々とおおかみと対峙して話をしているところや、感情の起伏を読み取らせないような文章表現が物語にリズムを生んでいる。

ある日のこと、ポリーがひとりでるすばんをしていると、げんかんのベルがなりました。ポリーがドアをあけると、外に立っていたのは、大きくてまっ黒なおおかみでした! おおかみは、かた足をぬっと家の中につきだしていいました。
「おい、ポリー。おまえをたべちまうぞ!」
「あら、いやよ」とポリーが、いいました。
「わたし、たべられたくなんかないわ」
「かまうもんか」と、おおかみはいいました。
「おれはおまえをたべちまうんだ。でも、そのまえに、ちょっと教えてくれないか。あのすてきにうまそうなにおいは、なんだ?」
「それじゃ、だいどころに、いらっしゃい」とポリーがいいました。
「いいもの見せてあげるから」

本文冒頭引用


ある日のこと、と時代と場所が不明確なので、昔話風な作りをしている。
赤ずきんを意識しての創作だろうかと思う。

おおかみとは初対面なのに、おおかみがポリーの名前を知っているのはふしぎだが、家にたずねてきているわけだから、元々知っていたのかもしれない。そんな細かいことを考えてしまうが、会話のユーモアとテンポがよく、気にならずに読み進められる。

「おばあちゃんのところにいく、小さな女の子の話をよんだばかりなんだよ。あれはとってもいいお話だなあ」
「赤ずきんちゃんのこと?」と、ポリーがいいました。
「そう、そう、その話だ!」おおかみは、声をはりあげていいました。
「おれはね、おやすみまえのお話に、じぶんによんできかせたのさ。じつにいい話だった。おおかみが、おばあちゃんと赤ずきんをたべちまうんだ」
それから、おおかみはざんねんそうにいいました。
~中略~
「それじゃあ、こんどは、『おばあちゃんのおうちはどこ?』ってきかなくちゃいけないんだ。おばあちゃんのおうちはどこ? ポリーずきんちゃん?」
「町はずれよ」と、ポリーがこたえました。
すると、おおかみはいやな顔をしていいました。
「お話では、『森のむこう』だけどなあ。まあ、町はずれでもいいことにしよう。どの道をとおっていくの、ポリーずきんちゃん?」
「電車にのって、それからバスにのるの」と、ポリーがいいました。
とたんにおおかみは、足をバタバタふみならして、どなりました。
「だめ、だめ、だめ! みんなでたらめだ。本にはちゃんと『森の小道をとおって』と、書いてあるんだ。電車やバスのことなんか、ひとつも書いてない。そんなのずるいぞ!」
「本に書いてあるとおりにこたえてもいいけど」ポリーがいいました。

本文より引用

この辺のユーモアのセンスと書き方がすばらしい。
現実と、お伽噺の間に差があることを、9~10歳はちゃんと認識しているということで、このすました女の子の対応が、おおかみと対比になっていていい。

「たべちゃうぞ!」「いやよ!」の構図は、エンターテイメント性とユーモアの鉄板なのだろう。


おおきな木

作・絵:シエル・シルヴァスタイン 訳:本田錦一郎

https://www.ehonnavi.net/ehon/391/%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%AA%E6%9C%A8/


あらすじ

(絵本ナビより)
昔、りんごの木があって、かわいいちびっこと仲良しでした。ちびっこは木と遊び、木が大好きで、だから木もとてもうれしかったのです。
時は流れ、ちびっこだったぼうやは成長して大人になっていき、木に会いに来なくなります。
ある日、大きくなったぼうやが木のところへやってきます。木は昔のように遊んでおいきと言いますが、ぼうやは言います。
「かいものが してみたい。だから おかねが ほしいんだ。 おこづかいを くれるかい。」
木は困りましたが、りんごの実をすべて与えます。

大人になったぼうやは家を欲しがり、木はその枝を与えます。
年老いたぼうやは船を欲しがり、木はついにその幹を与え、切り株になってしまいます・・・


感想

訳者のあとがきを引用する。

「与える」ことは人間の能力の最高の表現なのであり、「与える」行為においてこそ、人は自分の生命の力や富や喜びを経験することになる、と考える。一本のりんごの木は、この主張そのままに、ひとりのともだちに、自分の肉体をけずって、木の葉を与え、果実を与え、枝を与え、幹を与え、すべてを与える。母性愛さながらに――。
しかも、ここで、もっとも重要かつ微妙な問題は、この「与える」行為に、犠牲の行為を見てはならないという一点であろう。犠牲には悲劇的な感情がつきまとうのが常であるが、りんごの木が、ただひたすら喜びだけを見出していたことに読者は注目すべきである。

あとがき引用

与え続けることを、「犠牲」ではなく、真の「愛」として表現している点に感動がある、ということを書いている。このあたりはキリスト教や西洋の宗教的背景のような思想も見て取れるように感じる。

でも個人的には、何でも与え続けることでうれしかった木が、ふと幹を与えたときに、「きはそれでうれしかった。だけどそれはほんとかな」と懐疑的な表現が出てくる。

原文では「木はうれしかった。でもそれはほんとうに、というわけではなかった。」と、ややストレートな表現らしい。

最終的に切り株になった木に腰かけてくれることに「きはそれでうれしかった」となるわけだから、与えるよりも、一緒にいられることのほうが喜びなのでは、とも感じられる。

一度懐疑的な表現を出すことで、読者に考えさせる余地を与える。
このあたりの”余白”が中学年に入ってからなら理解できる、という部分なのかもしれない。


王さまの竹うま

作・絵:ドクター・スース 訳:渡辺茂男

あらすじ

(絵本ナビより)
ビンという国のバートラムという王さまは、竹うまが大好き。でもある日、王さまの大事な竹うまが消えてしまったのです。消えた王さまの竹うまをめぐって、悪い大臣とエリック少年の知恵くらべや、ねこのパトロール隊の活躍など楽しい物語がくりひろげられる。


感想

ドクター・スースの本。
絵が可愛らしくて素敵。
絵に比べて文章量が多いが、内容が面白く、するすると読めてしまう。

世界観の作り込みがしっかりしている。それでいて、説明的でもない。
この西洋的な王国の世界観でなぜ竹うま??となるが、竹うまを王様へ返すために奔走するエリックが追手に見つかりそうになるときに、竹うまを使って、背の高い男になりきる、というエピソードを使うための竹うまなのか、と思った。

あるいは、王様なのに、子どもらしい遊びをしている、という点での親近感なのかもしれない。今ならなんだろう。スケボーかな。


それから、この本の良いところは、ここだと思う。

「さて、ささやかなおたのしみをはじめるとするか」
このときのために、バートラム王さまは、いきているようなものでした。王さまは、はたらくときは、ほんとうによくはたらきました。けれどもあそぶときも、ほんとうによくあそびました!
「いそげ、エリック!」と、王さまはさけびます。
「いそげエリック!竹うまじゃ!」

本文より引用

一生懸命遊ぶことと、一生懸命働くこと、どっちも全力でやる、というのがメッセージ性として大人にも刺さる。



いつもさらっと書きたいのに、引用とかして、結局がっつり書いてしまう。

残りの読書ログはまた今度。

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