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九州の秘湯二日市温泉についての記述たっぷり。古文書『温泉考』解読⑧

寛政六年(1794)の古文書『温泉考』の解読第8回目です。
前回触れた、九州の二日市温泉について、著者原雙桂の熱弁がまだまだ続きます。そしてこの『温泉考』は最終回となります。

むかし、僧の蓮禅がはるばる天拝山麓の武蔵
(現在の福岡県筑紫野市の二日市温泉のこと。
=上記『温泉考』解読⑦参照)
へ湯治にやってきて、都へ帰るというときに
長門の壇ノ浦(山口県下関市)で
詩を作りました。

「夜憶遐郷終入夢 晴望孤島小
 一尋西府温泉地 治病逗留及両年」

無題詩集の中にあった「西府」とは
鎮西府ちんぜいふ※のことで、武蔵のあたりはすべて
鎮西府の古跡だったのです。

 ※鎮西府=743年に設置された九州総督
  のための役所。大宰府の異称。

ですから、ここの湯は古来、思いのほか
繁盛した温泉で、近隣のみならず天下に響く
名湯として、遠方からもはるばる海山を超えて
湯治にやって来る温泉だったようです。

また、貝原益軒かいばらえきけん※のいうある説には、
斉明天皇※が上座郡じょうざぐん※朝倉の仮の御所に
留まられた時に、武蔵村へ行幸ぎょうこうされ、
御湯治なさったとあります。

 ※貝原益軒=江戸時代の本草学者・儒学者
 ※斉明天皇=第35代の女性天皇で天智天皇の母
 ※上座郡=福岡県(筑紫国)にあった郡。
  朝倉市の一部。

朝倉市

また、古今和歌集には源実みなもとのさね※という人物が
都から筑紫に湯治に向かう際、
都の内にある山崎で

「人やりの 道ならなくに 大かたは
いきうしといいて いさかへりなむ」

という歌を詠んだ理由もわかるようです。
 
 ※源実=平安前期の歌人

この源実みなもとのさねが湯治した場所は筑紫とだけ
ありますが、どの温泉のことかはまでは
わかりません。

筑紫といってもとても広く、いま九州で
温泉のあるところとなると非常に多いのです。

ですから、どの温泉のことかは断定できない
のですが、蓮禅僧侶がはるばる武蔵の温泉に
湯治にやってきたことから察すると、
源実みなもとのさねが湯治した温泉も
武蔵なのではないでしょうか。

そこの人の言い伝えに
このようなものがあります。

昔の将軍に虎麻呂という人がいました。
その娘が病にかかり完治が難しかったところ、
この温泉に入湯すると
その病があっという間に治ったので、
虎麻呂はその湯を経営して建築して以来、
今に至るまで湯治人は絶えなかったといいます。

虎麻呂の本宅は古賀村の中、
すだれというところにあったそうで、
今もその跡地があり、温泉の近辺には
虎麻呂建立の薬師堂もあります。
そして、椿花山武蔵寺ちんかざんぶぞうじというその寺の近くには
虎麻呂の墓があります。

元来、虎麻呂という人は正史や旧記にも
その功績が見当たらない人ですから、
いつ頃の人なのか明らかではありませんが、
この武蔵寺を建立した人ということから、
大変昔の人だろうと思われます。

この武蔵寺を虎麻呂が建立したということは
貝原益軒も言っています。

さらに、貝原の説には、昔この寺は大寺で
堂塔も多く子院もたくさんあったとされ、
宇治拾遺物語下巻の二、出家功徳の条に
筑紫の武蔵寺のことがあるのは、
この寺を指しているとしています。

また、元亨釈書げんこうしゃくしょ※には昔筑紫の
武蔵寺・安楽寺・観世音寺で毎年正月七日に
追儺ついな※が行われたとあるのも、
この寺のことだと言っているのです。

 ※元亨釈書=鎌倉時代に漢文体で記した
  日本初の仏教通史
 ※追儺=悪鬼を追い払う行事

<おわり>


【たまむしのあとがき】

ここまで熱く語られると、現代語訳といっても、もはや私たまむしが二日市温泉のアピールを勝手にやっているような感覚を覚えます。

ついでなので、リンク貼っておきます。

何回目かのときにも触れましたが、この『温泉考』という古文書、解読するのは比較的容易ですが、ほぼ専門書なので東洋医学に関する用語が非常に多いという特徴があります。

東洋医学というと、個人個人の自然治癒力を発揮させましょう、ということだと思うんです。

江戸時代までは鎖国していたおかげで、西洋医学がメジャーではありませんでしたから、こうした考えが当たり前だったのですね。

これもまた、原点回帰のひとつではないでしょうか。

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