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療養期間の記録④ 薪をくべないこと、自分を適切に閉ざすこと



休職期間の価値と意味

たまたま連絡をくれた友人や知人に休職中であることを伝えると、何人かが僕が住む地域まで来てくれて、直接会って話をした。友人の車で夜にドライブをしながら話したり、平城宮跡で若草山の景色を眺めたりしながら話した。

自分もストレスでしんどくなってるから、時間があるなら話を聞いてほしいという友人や、数年前に病気になって今は定職についていない人など、忙しい人も、そうでない人も、それぞれに悩みを抱えているんだあと感じる。そういう人たちと関われる期間なんだな、今は。

普段忙しくしている友人が、「こうして何もない場所でぼーっとするような、なんでもない時間がめっちゃ必要やったわ~」と言っていた。周りの県に比べたら随分落ち着いていて、空が広くて、木々や鹿が多いような低刺激な奈良で、ゆっくりと話をしながら時間を過ごすのは、来てくれた人にとって意味のある時間になっているみたいだ。

今、”価値”のある時間と書きかけて、”意味”のある時間に変えた。
奈良に来てくれた別の知人との話のなかで、療養期間中に思っていることについて率直に話していたときに、こんな話をしたのを思い出した。(ちょっとうろ覚えなので実際の内容と少しずれていると思うけど)

僕:「休職中に、食料を届けてくれたり、話を聞きに来てくれる人がいて、すごくありがたいことだと思っている。その人たちは、もしかしたら、僕をケアすることで、充足感とか、喜びを得ているのかもしれない。僕はいま、働いてないし、生産性というのを考えたら価値が低いように感じるけど、前職で障害のある人のケアをしていて、誰かをケアすることで喜びを感じて、自己肯定感が高まるような感覚があった。そう考えたら、他の人に支えてもらっている今の自分にも、何かしら価値があるのかもしれない。おこがましいけど、そんなふうにも考えているんですよね」
知人:「価値というより、意味があるんじゃない?その期間だから気づけること、その後の人生に、この期間に考えていたことが、もりもとくんにとって、いろんな意味を持つことがあるんだと思う。」


辞書の定義はあえて書かないけれど、この文脈で、「価値」は、社会的な評価とか、社会や他者にとってどれだけ役に立っているか。「意味」はその人自身にとって、その出来事がどんな含みを持つか、どう影響を与えるか、ということだと思う。

ぼくは、療養期間中にも、というか、働いていない休職中だからこそ、自分の社会的な価値を気にしてしまっているんだけど、それって誰にとっての価値なんだろう。仕事から離れた今、僕のことを、価値のある人間かどうか、生産性がある人間かどうかで、判断する人って、誰なんだろう。そもそも、価値評価なんて、無限のベクトルがあって、一人の人の存在が、誰にとっても等しく価値があることなんて、ありえない。

それに、僕が友人のことを考えるときに、この人は価値のある人間だからOKで、この人は無価値だからダメ、なんて思ったことがない。
僕が勝手に、本当は評価しようのない自分の価値について考えていただけだった。

この期間が、自分にとってどんな意味を持つのかもわからないし、意味を考え続けるのも疲れそうだけど、今の自分が社会にとってどんな価値があるかを考えるより、この期間が自分にとってどんな意味を持つかを考えた方が気楽かもしれない。

自分を評価する架空の他者から見た自分の価値よりも、自分にとってのこの期間の意味をもう少し考えていたいと思った。いや、考えなくても単純に「好きなことして、リフレッシュするための期間」で、別にいいんかもしれない。療養期間なんやから。たぶん、まじめに考えすぎてしまってしんどくなったんやから、不真面目にならないとなー。


薪をくべない

 昨日、会って話していた人に、「考えることが多すぎてフリーズしたんだから、今は薪をくべないでゆっくりしてた方がいいんじゃない?」って言われた。薪をくべないって、アウトドア好きなその人らしい、良い表現だなーと思った。燃やし過ぎない、考え過ぎない、活動量を減らして、ぼーっとする。ぼーっとしようと思っても、いろいろ考えちゃうんだけどね。

 NETFLIXで、ペンションメッツァっていう少し前のドラマを見ていたら、良い感じにぼーっとできて良かった。自然の綺麗な景色を見るのはうつ状態からの回復に良いみたいだし、30分弱の短い尺で、一人の客が長野のペンションを訪れて、小林聡美さん演じる主人のテンコさんと一対一で会話をする様子は低刺激だし、その会話のなかで時々、はっとさせられたり、気づかされる言葉が出てきて楽しい。


ネタバレになるんだけど、(嫌な人はさっとスクロールして飛ばしてください)

ちょうど、上に書いた、休職期間中の自分の社会的な価値、に関連するような話があった。第4話で日本を自転車で2周しているゲストが、「出会う人に親切にしてもらうことが、最初は嬉しかったけど、自分にそんな価値はないように思えている」という話をしたときに、テンコさんが、価値があるから親切にするんじゃないと思う。って話をして、

出会った人が、今あの子はどうしてるかなーって時々思い出したりすることは、豊かなんじゃない?(言葉違ったかも)と言っていて、ああ、そうなんだよなあって思った。

ただ仕事があって、子育てや介護の時間があって、趣味の時間があって、そんな日常のなかの、ちょっとイレギュラーな誰かとの出会いが、その人の人生を豊かにすることもあるんだよな。

今の自分にとって、ほっとするような言葉だった。

いろいろと苦しかった中学時代、普段ほとんど学校にこない友人がたまに来た時に話をしたり、高校時代に、不登校の友人と会って話したりするの、好きだったんだよなー

あまり考え過ぎず、適度にぼーっとできる活動。
自分にとっては、こうしてnoteに書くことも、そうだったりする。
時間をかけて、マイペースに、ゆるやかに。


自分を適切に閉ざす

 最近、発達性トラウマについていろいろと調べるなかで、はっと気づかされる文章に出会った。

 実はイメージとは反対に、悩み、生きづらさを抱える人の多くは社会性がないためではなく“社会性過多”であるがゆえに社会とつながることができなくなっています。他者の意識や規範を過剰に忖度し抱えすぎるために身動きが取れなくなっているのです。
トラウマを負った状態もまさにそうで、人に対して“開きすぎて”いる。そうして、自他の区別が曖昧になり、自分を見失い、他者の言動に振り回されたり、相手に支配されたりしているのです。
 トラウマを負った人は自分をうまく“閉じる”ことができないままに、“開こう”として敗北を繰り返しています。さながら、自分の家のドアや窓が壊れているような状態です。家に鍵を掛けることができなければ、安心して外出することもできません。
(中略)
 健全な人格形成、愛着形成とは、しっかりと自分を閉じることだと言えます。それが自分を大切にすることであり、自分の内側に安全基地を持つことです。その結果、対人関係の構築につながっていきます。
 自己を再建し、対人関係の回復を行うためには、まずは心をしっかりと“閉じる”ことを意識することが必要です。

出典はこちら↓


 昔、辛いときに人に話を聞いてもらって楽になった経験があって、安心できる人に話しながら自分の今の気持ちを整理することが習慣のようにになっていた。療養期間中にこうしてnoteに記録を書いていることも気を付けないといけないんだけど、垂れ流すように思いを誰かに話してしまうことは特に気をつけないといけない。必要以上に心を開いて、気に入られようとして相手の言葉に同調したり、共感したりするうちに、自分の本音を見失ってしまったらよくない。療養期間の序盤は人と話し過ぎたから、しばらく人と話す頻度を減らしつつ、適度に閉ざしたまま人と関わるように意識していこう。

引用した文章の、 ”自分の家のドアや窓が壊れているような状態です。家に鍵を掛けることができなければ、安心して外出することもできません。”
のとこを読んで、お笑いコンビの滝音の”引っ越し”のネタがよぎった。(youtubeで聞けるので聞いてほしい。)海でドアがおぼれていたら助けるかわかんないけど、ドアはむちゃくちゃ大事なんよなあ。

家にいてもLINEやSNSで気軽に人と繋がれてしまう時代やからこそ、
オフラインの時間を作ったり、返事をあえてすぐにしないようにするとか、意識していこう。

うまく閉ざして、人と無理なく関われた方がむしろ自由なんだよな。

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今日はこの辺にしておきます。
最後まで読んでくれてありがとうございました。





たまには遠くを眺めてぼーっとしようね。