見出し画像

なかなか共感してもらえそうにない、「図書館に帰省する」感覚について


図書館のコインロッカーにスマホを預けてデジタルデトックスをするのが好きだ。

近頃の僕はひとり暮らしで休職中で、普段人と同じ空間で過ごす時間が少ないので、人とのコミュニケーションはだいたいスマホになってしまう。だけど、ずっとスマホの近くにいるのは疲れる。何事にも適度な距離感というのがあると思う。

ジョギングをしたり、ちょっとした買い物をしに出掛けたりするときはスマホを家に放置することが多いんだけど、情報中毒なのもあって、家にいる暇な時間はついついスマホを触ってしまう。

図書館だと本から無限に好きな情報を集められるので、スマホがなくても問題はない。だから、コインロッカーに他の荷物と一緒にスマホを預けて書物の森に飛び込む。



****


大好きな図書館がある。


1つは、家の近所の県立図書館。

もうひとつが、岐阜駅から歩いて30分ほど北上した長良川の手前にある複合施設、”みんなの森ぎふメディアコスモス”の2階にある岐阜市立中央図書館だ。(駅からバスもあるのでご安心を。)


コロナ前の2019年の1月に行ったのが初めてで、今回は4年半ぶりの2回目だった。前日の夜に名古屋で用事があったのだけど、この図書館で過ごす時間を少しでも長くとりたくて、岐阜に宿をとった。


2015年にできた、図書館好きには有名なこの図書館は、なんといっても建築が特徴的だ。エスカレーターで2階にあがると、天井にキノコのかさのような大きな屋根のようなもの(グローブっていうらしい)がいくつもついている。しかも天井が平じゃなくて、うねうねしている。木材でそのうねりを表現しているのだからすごい。


みんなの森という名前にふわさしい、森を連想させる、だけどとても温かで明るい空間。書棚もそれぞれのグローブの空間を囲むように、渦巻き状に並んでいる。

図書館にありがちなカクカクした感じがなくて、全体的に丸くてぬくもりのある雰囲気。閲覧席も、どれもユニークな形をしている。


多様な世代の人たちが来るのも特徴的だ。

しっかり区切られることなくゆるやかにゾーニングされていて、子供向けのコーナーや、親子向け、青少年向けの学習スペースもある。小さい子どもからご年配の方まで本当にあらゆる世代の人がまんべんなく来ていて、建物がオシャレすぎるので若い人たちのデートスポットにもなっている。

コンビニやカフェのある同じ建物の1階フロアでは、学習スペースで外国人向けの日本語の対話クラスが開かれていたのだけど、そこも壁で区切られてはいなくて、学んでいる様子が外から見えるようになっている。

畳の敷かれた大きめのベンチでは寝そべっている高校生がいたり、昼時には持ってきた弁当を食べている人がいて、その横で親子連れが休憩したり、近くにある柔らかい椅子で幼い子が遊んだりしている。


学ぶ、休む、食べる、遊ぶ、読む。


空間がいろいろな活動に開かれていて、
いろいろな活動が外の人に開かれている。


***


大学を卒業して6年になる。

これまでは、生活支援の仕事をやっていたから、お盆も働いていた。特に帰省する習慣もないので、むしろ利用者さんの住む共同住宅が、自分にとっても家のような感覚になっていた。ちゃんと働いてはいたけど。

その仕事をやめて、今年からは、お盆には働くことがない。
今は休職中だからお盆でなくても賃金をもらう仕事をしているわけではないし、来年はまたお盆も働いているかもしれないけれど。


たまたま名古屋に用事があって、ついでにこの図書館に来たんだけど、お盆休みに、仕事も、帰省する場所もなかったら、またこの図書館に来るのもいいかもしれないと思った。



本当にたくさんの人がいる。それぞれ、きっと好きで図書館に来ているんだろうけど、もしかしたら、お盆に他に行く場所がないという人も結構いるのかもしれない。そんな人たちが楽しく過ごせる図書館というのは、結構いいなと思う。それに、ここには、本当にたくさん人がいる。みんなそれぞれ一人で本や雑誌を読んだり勉強したりしているから、自分も一人で本を読んでいても、まったく寂しさを感じることがない。言葉を交わすことのない人たちだとしても、他者の存在が近くにあることに救われることがある。



***


昔から、図書館は安心できる場所だった。

子どもの頃、家が少し危険だった時期に、図書館に避難して過ごしていたこともあるし、高校時代、ストレスで一度だけ学校をさぼったときも、昔住んでいた地域の図書館を訪れていた。


図書館には、殴り合いの喧嘩をしている人もいないし、暴言もとびかっていないし、誰かに背後からどつかれるリスクもない。

それぞれが、静かに勉強をしたり、好きな本や雑誌に無防備に向き合っていたり、借りるCDを探していたりする。子どもの頃の自分にも、安心して無防備でいられる場所だった。


***



ぎふメディアコスモスで、古代ローマの哲学者たちの本を読んでいた。

紀元前後1世紀のセネカの生きた時代には、暴君の皇帝に自殺を命じられて死に追いやられる人がたくさんいたらしい。そんな時代に生きたセネカは、自殺や生きることの意味についての考察を深めていたけれど、セネカ自身も、最期はネロに命じられて自死で亡くなっている。


事故死や病死や自死や他殺、どの時代にも、いろいろな死に方があって、最期は誰もが死を迎える。

どれだけ平和でも、病気になって早くに亡くなってしまうこともあるし、事故にあうかもしれないし、死を免れるわけではない。


それでも、自分が今、戦争の起きていないこの国で、平和に心穏やかに生きていられるのは、それだけですごく有難いことだなと思った。


1階では、戦争を経験した年配の人たちの語りを聞いて、広島の学生が描いた絵が展示されていた。原爆が落とされたときの広島の様子。絵を見るだけでも、ぞっとするようなものばかりだった。




できたらまた来年も、夏にこの図書館に来たいと思った。


近所の行きつけの図書館の他に、帰省先のように、時々遊びにいく図書館があるのもいい。


誰か知り合いがいるわけでもないのだけど、勝手に自分の居場所だと思って、次は心の中で「ただいま」って言って帰ってみよう。


岐阜の皆さん、すみません。笑
たぶん来年も、勝手にお邪魔します。











たまには遠くを眺めてぼーっとしようね。