くちびるまで0.5ナノ秒[ショート小説]

今日ものんびり布団を出て、自転車で大学に向かう。まず最初に学食でお昼のサバ定食をほおばる。研究室に向かうのはお腹が満たされてから。卒業論文の実験をするためだ。

研究室に着いて、お気に入りのマグカップで紅茶を淹れる。居室の自分の席に座り、背後に座る同期と背中越しにパソコンガジェットについて語り合う。あ、新しいキーボードが出てる、買うか買うまいか。アニメ新番組の情報をチェックして、どれを観るか選ぶ。

・・・・・・

うん、そろそろ実験せねば。

宇宙からは絶え間なく素粒子が降り注いでいる。そのなかで、一部の素粒子がシンチレータという物質にあたるとごくわずかな光を放つ。その光を特殊な光センサーで捉えて特徴を調べている。

研究室奥の暗室で実験装置を組み上げる。シンチレータを設置し、光センサーを取り付ける。センサーの出力信号を取り出すケーブルを取り出し、暗室の外で計測機器につなげる。ナノ秒レベルの信号を検出するため、出力信号をいくつもの計測機器に同時に入力するとき、ケーブルの長さが問題になってくる。

光が1秒間に進む距離は30万km。1ナノ秒だと30cm。ケーブルの銅の線を電気信号が伝わる速さは光より少し遅くて、1ナノ秒で約20cmだ。そのため1つの計測機器につなげるケーブルの長さが40cm長いと、その計測機器だけ信号が2ナノ秒ずれてしまう。そんなことも考慮しながらケーブルと計測機器をつないでいると夜8時になっていた。今日は研究室のメンバーが全員帰っていた。

ふと、昨日のMさんの黒髪とシャンプーの匂いを思い出す。隣の研究室とは技術領域が近いため、よく装置を貸し借りしあっている。昨日もMさんがうちの研究室に来て電源装置を借りていった。5kgくらいあるため持てるかなと思っていながら背中を見ていると、足元のテーブルタップにつまづいた。

あぶないっ

思わず電源装置といっしょにMさんの両手を抱えてしまった。顔を上げると、触れそうな距離にあるMさんの目が、まん丸く見開いていた。

『危なかったぁ』

思わず口からでた言葉がハモって、お互い笑ってしまった。(もちろん手はすぐ離したけど)

あのとき、Mさんのくちびるまで、もう10cm近づけていたら・・・

いま研究室のドアを開けてMさんが入ってきてくれないかな・・・

そんな願望がよぎって身悶えたくなる気持ちをなんとか抑え、また目の前の計測機器にケーブルをつなぎ始めた。

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