アニメ「勇気爆発バーンブレイバーン」と同性間の恋愛、そして政治的利用とは

はじめに~諸注意~

 アニメ「平家物語」以来ほぼ2年ぶりにテレビアニメをリアルタイム視聴し、どっぷりとはまった私が、今一度ブレイバーンについて考えてみよう、と思い立ち今文章を書き起こしています。この文章は先月末に最終回を迎えた勇気爆発バーンブレイバーン最終話までの放送内容、および関連番組(webレイディオ、最終回後特番等)、現在販売されている(されていた)作品関連の雑誌インタビュー、およびSNSにおける制作サイドの発言、トークショーの内容等を前提に書き、それらすべてにかかわるネタバレを含みます。まだ未視聴の方やネタバレを避けたい方はご覧にならないでください。

 また、ネットで散見した意見をもとに書いていますがあくまで私個人の意見であり、その意見を貶めたり、全面否定しようと思っているものではありません。これは私個人の意見を言語化する試みです。

 Twitterのプロフィールにあるように、私の大学での専攻は政治学であり、人文学専攻ではないので、作品の批評術や手順、方法論を訓練されたことがありません。あらかじめその点ご容赦ください。素人が何とか頑張った文章です。

 

問題提起、そしてそもそも「公式」とは

 「ブレイバーンのルイス・スミスとイサミ・アオって同性愛関係なの?」

 これは、たぶん放送中も放送後も多くの人が幾度となく考えたことで、それをどう表現するかいろんな人が試みていると思うんですよね。2人についての二次創作もたくさん存在しているし、私自身も何本か小説を書きました。
 この問いは特に「果たして二人の関係は公式において恋愛なのか?友情なのか?親愛なのか?……etc」という点に重点が置かれているものも多いと思います。

 ここでまず問題になるのは(issueになるのは/つまり「問題行動」等の文脈で用いられるネガティブな意味での「問題」はなく、話の主題としての「問題」)「公式」とはそもそもどう定義され、どこまでの範囲を指すのか、です。

 私自身結構安易に「公式は~」「公式が~」と話していますけど、そもそも公式って何でしょう。定義づけをあいまいにしたまま話は進められません。大学の論文やレポート執筆で口を酸っぱくして注意されるなのに……

 某ネット界の論破王のように(私は彼が好きではありません。なんだよ、論破って)、ここで三省堂の国語辞典を持ち出しても仕方ありません。辞書は定義づけの目安になりこそすれ、確定された定義にはなりえません。辞書の定義はあくまで「三省堂の辞書製作者」たちの定義でしかないからです。

 公式って何でしょう。私はよく監督やプロデューサーの発言や作中でのセリフ、描写、そういうものを「公式」と呼称している気がします。でもアニメージュにおけるイサミの兄設定のように「これは裏設定」「僕のイメージ」のように監督が発言することもあるくらいですから、監督を含む制作サイドの発言全てがダイレクトに「公式」と結び付けられるわけではなさそうです。

 声優の皆さんも監督に「スミスはいつからイサミをいつから好きなんですか」なんて質問するくらいだから、声優さんが演じているイメージもまたダイレクトに「公式」にはならないのでしょう。
 このようなやり取りから逆に考えると、演者自身も作品を読み取り解釈して演じている者であり、受け手の一人と考えることもできます。

ここまでの思考をたどっていくと、「公式」とは作品として解釈されるもの、なのかもしれません。監督も解釈をしているし、プロデューサーや脚本家もいろいろと作品について解釈している。「公式」のコア、中心にあるものとするならば、作品内でのセリフ、描写、劇伴、歌詞、などなどで、公式であり、公式を解釈するものとして制作陣がいるのではないでしょうか。グラデーション的にあるんじゃないかしら。

 「公式」の定義について非常に簡単に、浅すぎる考察を行ったところで冒頭の問いに戻ります。

「果たして二人の関係は公式において恋愛なのか?友情なのか?親愛なのか?……etc」

 さっきの脳内議論の結論に基づいて言い換えるならば「果たして二人の関係は作中/制作陣において、恋愛なのか?友情なのか?親愛なのか?……etc」になります。どういう関係として描かれているのだろうか、という問いです。というかそれは三者択一か?

 私の結論をさっさと言ってしまうのであれば、私はスミスとイサミが作中、愛情を持っていると思っていますし、スミスもイサミも、その感情を互いに伝え合い、意思疎通しているわけではないものの、互いに恋愛感情を向けあっているものとして描かれていると解釈しました。

 でも私はここで自分の解釈をどうこう述べたいわけではありません。どちらかというと、二人の関係を製作はどう描いてどう解釈し、受け手である視聴者はこれをどう解釈し、受け取ったかという部分を、少し考えたいのです。

 言うまでもないことかもしれませんが、スミスとイサミの恋愛感情を感じさせる描写は、作中にいろいろとあります。スミス≒ブレイバーンのイサミに対する強い執着(ex.2話での「chapter.1」やら、2話での連呼)を挙げることもできますが、より直接的な描写であれば、エンディングでスミスとイサミが指を絡め、それを公式SNSエイプリルフール企画動画は「恋人つなぎ」と形容する、といったブレイバーンではなくスミスとしての行動を例に出したほうがいいかもしれません。これに続けて、5話でのスミスのイサミへの視線や、性器同士がぶつかっていることを思わせるイサミのセリフ(スミスが性器を故意に当てていて、そしてそれが恋愛感情を示すものなのかという議論はあると思いますが)、10話でイサミがスミスの部屋でとった行動や、それに続くプラムマンのセリフ(これの解釈だって幅がある)も列挙することができるかもしれません。

 ブレイバーンとしての行動も私は含めていいのじゃないかと思うので、やはりそこも含めると、一番直接的なセリフとして、11話の「イサミ、大好きだ」とその英語字幕「Isami, I love you」も書いておくべきでしょう。個人的な印象として、日ごろ英語のネイティブスピーカーたちは割とカジュアルに「love」を使うし、友情関係でも用いているな、という印象ですが、イサミを押し倒しながら「友愛」表現として用いているというのは、少し無理があるのじゃないかなぁ、と思います。ここら辺のくだりが1番、性的なものも含む恋愛感情を出してきている気もしますが……(えーん、性的ってどう定義するの、恋愛感情って何を基準にするの、むずかしい、批評や文章の読み方を1度きちんと訓練したいです)

 そのほかにも、セリフではなく描写で言うならば、番のカモメを出してみたり、だれが書いたかは不明ですがブレイバーンとイサミの相合傘が砂浜に描かれていたり……きりがないのでこの辺にしますが、ここまで描いて恋愛感情ではない、はちょっと無茶じゃないかと思った結果です。

 むしろ「友愛」を描きたくてこれを出力したのなら、演出方法が間違っているとは言わないまでも、的外れではないかと感じます。

  ただ、再度申し上げておくと、私が書きたいのはこの描写の解釈云々ではなく、この直後の文章なので、スミスとイサミの間に存在する(と思われる)恋愛感情の根拠についての記述はこの辺にしておこうと思います。この辺の考察は楽しいから、またフォロワーさんとディスコードとかでおしゃべりしようっと。

 

ネットと製作側の受け止め

 さて、そんなブレイバーンでの描写を「同性愛」であると制作側が明示化するのか、そして受け手側も、「同性愛」と明言して二人の関係を論じるのか。ここです。ここ。私が一番考えたいのは、ここです。

 初めに、SNSでの受け取りを見るなら、(主にTwitter/X,そして私のタイムラインや検索での表示なのでとても不正確)かなりたくさんの人がスミスとイサミの恋愛感情について考察していましたし、Twitterのトレンドに「スミイサ」が何度もランクインするほどでしたので、私と同様の受け取り方をした視聴者は多かったように思えます。

※「スミイサ」とは、主に恋愛関係を示すカップリングタグの表記形式に従って作られた用語で、BLの文脈でこれが使われると、名前のどちらを左側、あるいは右側に設定することでベッドでの役割、いわゆる「受け」「攻め」の意味が付与されることも。

 前述したとおり、製作側の発言としては多くはないものの監督が声優さんの質問に答える形で、スミスがイサミを好きである、ということを肯定したこともあります(しかし恋愛という言葉が出たわけではない)

 しかし一方でこんな議論も各所で見られました。

①「スミスとイサミのセクシャリティー(性的指向)をはっきりさせる必要あるかな」

②「海外でブレイバーンを放送するなら、同性愛を明言しないほうがいいってことなんじゃないかな」

③「いちいちスミイサを同性愛って明言するの、結局はそういうマイノリティーの勝手な政治利用じゃない?」

私が見たものは大きくこのような三つの主張に分類できます。①は同性愛の明示化/透明化の問題、②は海外での受け止めとマーケティング、③は政治的利用の問題とざっくりいうことができるでしょう。

①「同性愛」明示化と透明化をめぐるジレンマ

 以前、自分のセクシャリティーを述べずに意見を発したところ、ずるい、隠すな、と言われたことがあり、私はずるいとも隠したとも一切思わないのですが、今回は冒頭で書いておこうと思います。

 私はパンセクシャルで、自分が人を好きになるときに性別が介在してこない人です。こうとしかうまく言えないので詳細は省きますが、ぱれっとーくさんのこのツイートが非常にわかりやすいので、以下参考までに……

https://x.com/palettalk_/status/1384464592722481160

で、私のセクシャリティーにてついては2年前にこんなことを書いたのでここを参照してください。

https://note.com/komusune_note/n/n16b4daaa172f

 とにかく、私はレズビアンよりのパンセクシャルです!以上!

 

 さて、時を戻そう。

 「同性愛」をわざわざ明言する必要はあるのかな、という話です。

 これも結論から言うならば「2024年の日本においては、ある」、だと私は思います。理由は簡単で、同性愛者を含むセクシャルマイノリティーは今現在の日本において「透明化」と常に隣り合わせであり、差別と格差の問題が依然として根強く残っているからです。

 透明化、と聞いてもあまりピンとこないし、そもそもブレイバーンはマイノリティー差別や格差撤廃のための作品じゃない!とお思いになる方もあるかと思います。勝手に政治的利用をしないで、と。
 政治的利用については後述しますので、ここでは透明化に的を絞って論じます。

透明化って、なんでしょう。

なかったことにされること、軽視されること、それが透明化です。

少しわかりやすい例で考えてみます。

 第二次世界大戦中、アメリカにおける日系人、日本人差別についてかいた映画があったとして、それを製作側や受け手が「これは日系人差別の物語ではなく、広くアメリカの歴史と差別を書いた物語だ」と述べたならば、すこしムッとしませんか。

 日系人の差別に関しては未だ謝罪や補償が遅れている、という問題がありますが、戦勝国であるアメリカが犯した日系人の強制収容所問題、犯罪は大きく表立って扱われるテーマではなく、アメリカ社会で避けられている印象を持ちます。

 そんな日系人の歴史を、「これは日系人の問題ではなくアメリカの差別の問題です」と言われれば、「日系人差別」という問題や「日系人」という存在が、いっそう薄れてしまいますよね。

つまり、これを同性愛に置き換えて考えると、「これは同性同士の問題ではなく、人々への差別や偏見の物語です」といった具合になるわけです。

 「海外と違って、ゲイとか同性愛とか明言しない関係性がいいんだよ」「同性を好きになったとか、ゲイとか関係なくて、その人を好きになったんだよ」も、めちゃくちゃゲイを透明化して同性愛を消費する行動だと思います。

 「同性愛を明言しない」は「同性愛を透明化する」と表裏一体です。特にセクシャルマイノリティー当事者でない人たちが「ゲイかどうか明言する必要はない」と言ってしまうことは、透明化を一層進める危険性をはらみます。

 落ち着いて考えて、どうしてそこで「ゲイ(/同性愛者)じゃないんだけど」という枕詞が付くのか、どうして同性同士の恋愛を「同性愛」と呼称することを避けるのか、自分でも気づかない差別と透明化は潜んでいます。

 むしろ、わざわざ同性愛者ではない、と言いたくなってしまう、それが無意識な差別感情なのかもしれません。

 政府や企業によって、意識的に透明化がなされることもあります。
 それがはっきり出たのは、「水星の魔女」問題だと思います。ネットの記事ですが、わかりやすく要点をおさえていると思うので引用します。記事には水星の魔女最終回のネタバレが含まれます。

https://magmix.jp/post/173801

 ここまで明らかな描写がありながら、雑誌で同性同士の「結婚」の二文字が削除されてしまう。日本社会におけるセクシャルマイノリティーを取り巻く現状は、ここに集約されるのかな、とも思うのです。

 つまり、セクシャルマイノリティー当事者の政治的利用云々の前に、とても政治的な圧力をはらむ可能性があるのです。

 

 「わざわざ明示化する」これは、透明化に対しての抵抗でもあるのです。

  私自身も、大学に入学してしばらくするまで自分を「腐女子」と呼称していた一人ですし、この透明化の問題しかり、とても難しいな、と思います。

 でも一方で、いちいち「明示化するのか」と思うこともあります。

 当事者である私でも。

 だって、異性愛の恋愛でいちいち「異性愛」って言う?とも思います。もうそこも含めてすべて、ひとしく同じく「愛」として差別化(明示化)せずに書いてくれよ!そんな気持ちもあります。

 そういう意味でこの作品は、そもそも作中明確にセリフ等で付き合っていると言及しているキャラクターがいないというのもありますが、「愛」というものをセクシャリティーを飛び越えて一つの地続きなものとして垣根なく描いている、という印象があります。

この作品の新しさはここにあるのかなと思うのです。

 イサミとスミス(ブレイバーン)のまっすぐな愛情や好意を、看板なしで描き切り、しかしそこから透明化の意図はほとんど感じません。この作品から同性愛の透明化がなされるとすれば、視聴者を含むさまざまな「受け手」「解釈する人々」の側からでしょう。

 二次創作でも、感想でも、この作品を考えるときに、「同性愛について考えなくてもいい」「セクシャリティーについての明示化はいるのか」という問いかけがなされる時にこそ、透明化は進むのではないでしょうか。逆に、話さなければならない、話す必要がある!義務だ!なんてこともない。そう思っています。

 つまり「わざわざ必要か」という問いかけが生まれた瞬間にこそ、という意味です。

このあたりの私の意図、うまく伝えられている気がしません……

 だからこそ冒頭の、「2024年の日本においては、ある」という結論に至るのです。同性婚の法制化も差別の禁止もさっぱりで、同性同士のキャラから「結婚」の二文字が削除されるようなこの社会には必要なのだと。

 

②海外マーケティングと同性愛

 ブレイバーン、海外でも放送されているのですね!知らなんだ……どういう方法で視聴しているのか私はわからないのだけど、すでにアメリカに帰国している友人が、字幕付きでブレイバーン見たよ!なんて報告を聞きまして(しかも彼のお父さんは海兵隊員であった)、世界各国で見られているんですね。すごい。中東でも見られているとの報(どこの国かまではちょっとわからないのですけど)
 この節はほかの節にくらべて本当に予測というか自分の思い付きなのでまじで薄目で見てください。なんのエビデンスもありません!

 今はインターネット配信時代ですから、これまでと比べて格段に他国に作品を送りやすくなりましたし、人々も一層簡単に海外作品へアクセスできるようになりましたよね。ブレイバーンもその例にもれず、ということでしょう。地上波でも放送されているのかな。

 ということで、やっぱり海外マーケティングの視点から、同性愛描写を明確化したくないんじゃない?との声もちらちら見られました。

  世界で同性同士の性行為を法律で禁止している国は73か国存在し(国連加盟国の37%に相当)5か国では死刑に、7か国では執行現在執行されていないものの死刑に処される恐れがあります。(2020年私調べなのでちょっと古いデータ/ILGA(国際ゲイレズビアン協会)と国連広報センターによる)

 この死刑執行国はすべてイスラーム教徒が過半数を占める国で、このことからイスラーム教徒や、イスラーム教徒が多い国では同性愛がタブーになっているというイメージを持つ方も多いかと思います。

 そしてそこから、「中東地域でアニメを積極的に売り出すためには同性愛描写をなくしたほうがいいという決断なんじゃない?」「明確化しないほうがいいんじゃない?」と思うのも、まあ自然な流れなのかな、と思ったりします。

(ここで一つ申し上げたいのはぼんやりと「中東」をイメージするのはよくないということです。皆さん、どこからどこまでが「中東」地域なのかはっきりイメージできますか?何となく、イスラーム教徒がたくさん住んでいて政情不安定で何をしでかすかよくわからん遠い地域、って思っていませんか?

前述の「公式」もそうですが、このあたりを落ち着いて考えないと、議論はまとまらないし、かなり偏ってしまうと思います。「中東」のイメージと定義をめぐる話を始めると、一本本が書けるくらいの分量になるので、問いの投げかけだけでここは締めます)

 でも私はそこにはあまり因果関係はないのではないかな、と思っています。

 まず、同性愛描写だけが問題視されるわけではないということ。どういうことかというと、例えばサウジでアニメを放送するとき、女の子の肌露出には、同人誌の海苔修正みたいな修正が入ります。(私も数本のアニメを見せていただいたことがあるのですが、ちょっとおもしろい)
 進化論もイスラームの中ではNGなので、ポケモンの進化シーンはすっ飛ばされるそうです。(「サトコとナダ」というサウジ出身の女の子と日本人の女の子がアメリカでルームシェアする4コマ漫画にも、この辺のお話は描いてありましたね)

 だから、放送するときは宗教上の理由ならむしろ放送国や配信国側で修正入れるんじゃないかな、とか思ったり。でもこれは完全に私の予想です。

 一方で映画「バズ・ライトイヤー」が中国やマレーシア、サウジで同性間のキスシーンをめぐり上映中止になったことも記憶に新しく、やっぱりそっちにも配慮したのか?と、思うこともありますが!

 しかし、やっぱりマーケティング手法としてのいわば同性愛描写の自己検閲、はこの作品においてないんじゃないか、と思います。

 一つは、欧米への輸出を考えるなら、むしろ明確化したほうが受け止めはいいだろう、ということ。それに「中東」での市場規模って実際どの程度で、その不明確な市場規模を検討せずに、「中東」を考えてはまずいのでは。最優先されているのは言わずもがな日本だとは思うし……。

 もう一つは、ブレイバーンが幅広い社会問題を、かなり意識的に扱っているところが見受けられるからです。これに関しては次節で詳述します。

 ということで私の結論は「欧米にはクィアを明確に描いたほうが受け止めはいいだろうし、作品内のメッセージ性を考えると同性愛の自己検閲はブレイバーンでは行われていないのでは?」です。根拠ゼロ、ほぼ予測、ですが。

 みんな、同性愛で売れなくなる、ばかり考えすぎじゃないかなぁ、とも思っています。

 

③「政治的なもの」と、二次創作

ブレイバーンに込められた社会的メッセージを考える

 

 やっとここまで来ました!3000字くらいのブログにしようと思ってただけなのに!もう8000字超え!大学に提出するレポートもこれくらいの勢いでかけたらいいのですが……。

 さて、プロフィールにもあるように、私の専攻は政治学です。今勉強しているのはドイツの政治なので、2話のブレバドイツ語シーンに大興奮しました。ハイデマリーさんのシャイセ(Scheiße/英語のshitみたいな感じ。きつめの「くそ!」。ちょっとわるい言葉)からしか得られない栄養があります。永遠にしゃぶります。

 なので「政治」という言葉には人一倍、並々ならぬおもいを抱えて日々大学構内を走り回っております。でも、まだ駆け出しのひよっこなのですけども。

 最近レインボーフラッグをもったキャラクターやデモ行進するキャラクターが描かれた二次創作に批判が集まり「作品を政治利用しないで!」という声をよく聞きます。

「いちいちスミイサを同性愛って明言するの、結局はそういうマイノリティーの勝手な政治利用じゃない?」

 そんな声も聴きました。

 しかし!まずもって私が引っかかるのは「政治」利用、という言葉です。

 皆さん、政治って、なんだと思いますか。何が政治で、何が政治じゃないのでしょう。政治をどう定義しましょう。

 政治、と聞けば真っ先に皆さん、国会議事堂を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。国会でのヤジ、裏金、選挙……。もしくは、環境保護や憲法9条、最近ではパレスチナに関連するものも多い、デモ行進でしょうか。

 どれも立派な政治活動だと思うのですが、政治、はそれだけにはとどまりません。

 さて、冒頭で「公式」の定義について語ったとき、辞書の定義はその辞書製作者の定義であるから、答えにはならない、としましたが、政治の定義に関しては、とてもイメージしやすくなるので、参考までに、広辞苑に書かれている説明を引用します。

【政治】
①まつりごと。
②人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。 権力・政策・支配・自治にかかわる現象。主として国家の統治作用を指すが、それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用できる。

広辞苑

 つまり、私が何を言いたいかというと、「政治」とは単に議会やデモ、選挙だけではなく、例えば部活動で部活動運営について話し合うのも政治だし、町内会のどぶ掃除当番を考えることも政治だということです。

 生活は常に政治的であり、政治と生活、私たちの行動は切り離せません。

 多くの人が件のイラストについて「政治的利用だ」と批判しましたが、その「政治的」(政治的なもの)という概念だけで、下手をすると研究者は一生研究でき、未だ学会で暑い議論を巻き起こしている概念でもあります。

 私の専門は政治思想や哲学ではないので、これ以上定義に関して深入りしませんが、それぐらい大きなテーマであるということは書いておきます。

 つまり、「政治」の定義を考えながら私が述べたいのは、「政治的でないもの」の存在はほぼ不可能だということです。むしろ「キャラクターにレインボーフラッグを持たせるべきではない」「デモ行進させるべきじゃない」という主張こそ、高度に政治的だともいえます。

 どうやって線を引くのでしょうか。政治的であるか否かを。「二次創作に「政治的描写」をいれない」、という政治的な考えが作用しているのではないでしょうか。
 むしろ線を引くならば、差別描写(例えば特定の人種や民族等をキャラクターが貶めている創作)か否かであると思います。

 現行日本では同性婚はできませんが、「結婚しよう」と日本でプロポーズする二次創作は山のようにありますし、その一部では日本で婚姻届けが受理される設定になっているものもあります。

 他にも、ものすごく当たり前にすべてのキャラクターが同性同士の恋愛に寛容な二次創作もありますし、「このキャラクターは○○と○○の恋愛に寛容だろう、偏見を持っていないだろう」とおもう、解釈する、作品として出力することも、すごく政治的ですよね。

 レインボーフラッグやデモ行進という非常にわかりやすくアイコニックなものが登場すると、人々は途端に政治利用だ!と批判しますが、自分の創作物がどうして政治的でないと言い切れるのでしょうか。

 だから、ブレイバーンの二次創作で、スミスとイサミのセクシャリティーについて言及していたり、仮に彼らがレインボーフラッグをもったイラストがあったとて、それを安易に批判するのはどうだろうか、と私は思います。

 最後にブレイバーンに込められた社会的メッセージを少し考えます。

 ブレイバーンには本当に様々な社会的メッセージが込められていると思います。

例えば、人種や性別のバランスです。主人公のイサミとスミスは男性ですが、その脇を固める重要なサブキャラクター達の性別や人種の偏りが本当にない。有能なパイロットであるヒビキ、メカニックのミユ、航空管制の二人も女性。軍医であるコワルスキー中尉も女性、その助手を務めているとみられる彼女も黒人女性です。極めつけはATFのトップ三役で、トップは黒人男性、その下に、ドイツ人女性と日本人男性が続きます。

 これはほんとに、すごいことですよ。

 1977年公開の「スターウォーズ エピソード4/新たなる希望」を見ていて一番びっくりしたのは、モブがほとんど白人ばかりでぎょえー、となったことです。まあ50年前の作品なので、2024年のブレイバーンと比較するのもおかしいのかもしれませんが、ここ10年の作品でも女性比率や、作品内での社会的地位の高いキャラクターを黒人や女性が占める割合はまだまだ低いな、と思います。2020年代になって加速度的に改善しているようにも見えますが、私はそれでも道半ばだな、と思います。

  ATF内のモブの人種や性別も、着目してみると、ほんとにすごいなぁ、これ絶対ちゃんと考えて描いているなと実感します。潜水艦や巡洋艦内のモブさんたちに至るまで徹底的に。

 イサミの描き方も、ステレオタイプな「男性」から一歩も二歩も抜け出したものだったと思います。普段は冷静で寡黙な男が、危機的状況で泣く、怖がる、閉じこもる。ギャグ要素で描かれている部分ももちろんありますが、男性の「こうあるべき」から脱した、非常に新しいキャラクターでしょう。

 最終回で彼が白旗をあげたのも、「人道的配慮を求める」と発言したのも、「死にたくない」も。
 スミスもブレイバーンも死んでしまったけど、自分は死にたくない、これを「日本の男性自衛官」が言うってかなりすごいことだと思いますよ!!

 トークショーで監督がスミスやブレイバーンのイサミへの感情を全くちゃかさずに、お酒が入っていても真摯にまじめに語っていた姿が印象的です。同性間の恋愛もしくはその他の感情を、真っ向から向き合ってくみ上げたのだな、と思います。

 キャラクターデザイン原案のかも仮面さんが、すべての女性キャラクターにほほ紅を入れていない(確かアキラとルルちゃんだけだったかな)とツイートしていらした(うろ覚え)のも、はっとしました。テンプレートではない女性のデザイン、すごく魅力的でしたよね。

 監督が繰り返し「人間賛歌」とこの作品を形容しますが、このどれも「人間賛歌」な作品をかく上で必要不可欠なものだと思います。

 

 ひゃ、10000字超えたっ!もうこのあたりにしたほうがよさそうですね。

 ブレイバーンにまつわるいろいろな思いを勢いのままに書いてしまいました。
 本当に繰り返しですが、本当に誰一人攻撃する気持ちはないのです。特に政治的なものに関するくだりは多くの人から怒られてしまうのではないかな、と正直ふるえています。
 でもほんとに、政治って自分たちの生活と地続きだから、きりはなせないから、という、個人の意見で感想です。

  ブレバ!本当に最高の作品に出会えました。ありがとう、ありがとう!

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