見出し画像

何者

この話を同世代(アラフィフ)にしたら、世界の誰しもが考えてるだろうね、と言われた。
そうかも知れん。

自分は、何者になりたかったのだろうか?
何者になれると思ったのだろうか?

学校を出て、実力もないのに若さと夢と希望で社会に出たら、
氷河期などと言われて、したい仕事より出来る仕事を選んだ。
それでも社会人として私はまだラッキーな人生で、正社員と言う枠組みからは出ずに済んでいる。

さて、一般的な人生を80年前後と考えると、ちょうど折り返した辺りになるのだが、社会人としても60年くらい働くのだと考えると折り返しを少し過ぎた時期にあたる。
そうすると、五里霧中だった人生のルートが見えて来る。
あそこがゴールで、道のりは一般的にはこうだ、と言うのが見える。
実際には、まだまだ想定外の出来事があるのだろうから、ゴールへの地図がうっすら見えてくると言う方が正しいのかも。

自分も周りももう少し期待と希望で社会に出た気がするが、このまま行くと上がりの役職も、目減りするばかりの退職金も、それを元手に生きる老後も何となく想像がついてきた。

一体、あの社会に出る時に感じていた万能感は何だったのか?
ただの中二病の延長だったのだろうか?
みんな「何者」かになれるって思ってませんでしたか?

私はしっかりと思っていました。
小さい時にパイロットになりたい、とか医者になりたい!とかの夢を語るような事ではなくて、もっと現実社会においての「何者」かになれる気がしてた。
言い換えれば一角の人になれると思ってた。

では、その「何者か」は何者を差していたのだろうか?
医者?パイロット?政治家?俳優?電通の部長?起業して社長?
音楽家?
どれも何となく違う気がする。
NHKスペシャルで特集されるような人になった人は、「何者」かになろうとしてそうなったのだろうか?
そして、自分はその「何者」かになった気がしてるのだろうか?
それとも、ただ同じような感覚で毎日を過ごしている、ただの「日常」と何者でもない自分と感じるのだろうか?

もしかすると、同業や社内の人や、外から見れば私は誰かの「何者」なのかもしれない。
小さな世界の誰かの「何者」である可能性はある。
自分が一体何になったら「何者」になったと実感できるのだろうか。

結局のところ、今の自分が思う「何者」かの人生と「何者」ではない人生が同時進行して比較しながら生きないと分からないのかもしれない。

「何者」とは、「ないもの」の親戚な気がする。

自己肯定が爆上がりします! いつの日か独立できたらいいな…