性愛論を読み丸【読書感想文】

性愛論を読んだ。ショッピングモールの本屋のアウトレットコーナー的なカゴに半額処分で性に関する書籍がいくつか並んでいて、3つ買ったうちのひとつだった。

性も愛も事象としてよくわからない。その理解のために手を伸ばした。戸惑いなくnoteに書いちゃうくらい、そのよくわからなさは”ガチ”だ。保健体育のテストで100点を取って何が可笑しいねんタイプの不登校中学生だった。

手に取った時点での疑問点は
「性欲や性関係は(社会において)なぜ隠さざるを得ないのか」
「および自分の性とどう向き合うのが適当か(劣情と感じる気色の悪さや、他人の関係性にどう視線を向けるか)」
「実際のところ、そういった話題でどう返答するのが一般的か(年齢や性別によって返答を工夫するとして)」
などなど。

結果として、難しい書き方ではあるが節々にしっくり来る説明の仕方はあった。

この人(社会学者の橋爪大三郎さん)が未発表の論として書き上げたのが1982年(原案は1977年?)、色々あってか岩波書店から刊行されたのが1995年。品切れから文庫版になったのが2017年。こういうのは刊行年数ナシで読めないよねっ!

とにかく先を見据えてる人なんだな~と感じた。大昔からそういう歪さに悩む人達がいて、というか人間である時点で皆一様にソレに悩んで、どこか繰り返しうやむやにならざるを得ない部分がやっぱりあるのだろう。
そして知るほどに2000年そこらって別に大昔でもないな、みたいな気持ちにもなる。

読み終わりで「性に関しての研究ってまだ全然初期段階じゃんかい!!!!!」みたいな諦めに近い怒りもあった。
本は全く悪くなく、むしろ短文短文で抜き出せば自分の生きづらさに納得できる文章や教えも多い。長文になるとちょっとまどっろこしく感じる文体だけど、そういうもんだよぬぇ~と思いつつ読んだ。

手に取った時点での疑問点に関しては”この本がヒントになる”程度で、実際には解決していない。「生き方」みたいなデカいテーマに関してはほとんどそうなんだけど、教えを乞うより正解を自分で固めるしかないっぽい。

インターネットってその交わらなくていい部分の衝突と刺激の増長・拡大・多様化が同時に起きるし、インターネットでモラルが爛れるのは当たり前のことなのかも。

というか「悩みを持って読んでもあまり解決しない」というのは序章の時点でも、あとがき的な有識者っぽい人の解説でもフォローしてあり、大澤真幸さん?の言葉を借りるに「(読者への)挑発」だった。

 本書は性愛について考える書物である。具体的な愛情の問題で、いま悩んでいる読者がおられたら、すぐ問題の解決に役立つという即効性は、期待しない方がいいだろう。しかし、こうした問題を考えるにあたっての、基本的な思考の筋道のいくつかを示すことは、できたかもしれない。

序章 ひとはなぜ愛するか 24p『性愛論』橋爪大三郎 著

広く浅くというか、性とその考え方に関してコンパクトにまとめてあるからこそ「ここのページ読み飛ばしたいな……」みたいな部分も多くあった。

全然真面目に書きたくないから曲も貼っちゃう。

1章は猥褻論。「性欲や性関係はなぜ隠さざるを得ないのか」に関して、正直正しく読み取れてるかわからない程度の答えしか導き出せなかった。
めちゃめちゃかみ砕いて言うのであれば「時代の流れ的にそうなっちゃったから」で、根本的には「社会においてあんまり関係ないから」なのかな~と思った。
もっと現代的に言うと「性関係を持ちだされると生活に邪魔で、支障をきたすから」なのだろうか。だとしたら頷ける部分があるけど、そう簡単で誤解を招きやすい形では書き記されていない。
あと法についてグレーな部分にも触れていて、その議論は他所で展開してほしい気持ちも正直あった。

2章は性別論。両性具有の方や染色体異常を例に出し、性差や性の決定について触れる。身体的な性別/社会的な性別、性別の自己把持、みたいな単語は理解しやすかった。
そういった性の当事者でないにせよ、これも中々思い当たる節(この同性への好きはどの好きだ??)がある。だからこそか、この章の終盤にある異性愛と同性愛についての暫定的な結論はかなり鋭いと感じた。社会構造上マイノリティとされやすいだけで、性愛としては同等である。というか自分の思想に近いだけかも。
それでいて愛のわからなさに実感がない人(普通に愛を受け取れる人)が世間の相当数を占めているから、タブーに触れる云々を置いといても理解を得難いんだろうな、とも思った。
この章の最後で触れる出産以外の生殖技術の発展した社会が仮にあれば、確かにそれでようやく「男女ってホルモンバランスとモノの有る/無いでしかないよな」みたいな世間の納得が得られる気はする。むしろ生殖・出産のシステムが根本的に変わらない限り、愛だ性差云々だでいがみ合っちゃうのも変わらなそうだよね~というのは全く同じ考え方だった。

3章は性関係論。同性愛はおいといて、よくある性愛はどうして”そう”なるんでしょうね?って部分について「性的距離」みたいな言葉を使って書いてある。
序盤はイヌやサルを引き合いに出して、人間の性的な歪さや構造や禁忌の発生にもわかりやすく、(深く触れない部分もありつつ)軽く書いている。なんか……なんでこれって学校で教えてもらえなかったんだろう……みたいな気持ちになった。ただ義務教育段階で聞いてもわからんのよな。
「性的距離」のコントロール、いわゆる「段階を踏む」みたいな説明を経て、終盤には倫理の話題に変わっていく。現代日本の婚姻制度のよくわかんなさも途中で触れられていて、興味深く読めた。

4章は性愛倫理。なんだかんだで一番知りたかった部分だ。この本で一番深く、社会学や宗教学や文化人類学的な視点で切り込まれている。
一種ドラッグ的な性という存在と、実体はよくわからない愛情というものに、人間の歴史がどう向き合っていて、それが現代にどう流用できるのか……なんてことを書いている。たぶん。ちなみに難しすぎて全部はわかってない。

そもそも子供は直観で矛盾(穢らわしいのに愛おしい)を分かっている割に、大人が言う性の倫理だなんだは思いっきり矛盾しているのだ。ヒトってド変態すぎるのに隠しすぎてる。(特に僕個人に関しては)これくらい原理的に説明して貰わないと理解できなかったと思う。性愛技法の過剰、それによる婚姻のたじろぎだ云々というのも、若さ周辺の話題として聞き覚えがあるし面白い。

性愛の矛盾について、なんだかんだ正解にあたる教育法はどこにもないのだろう。
教育上は「聞かせてもわからない」「ソレが社会生活において支障をきたしがちである」みたいな自分でも思い当たる節のある……というか自分でもここに書いた部分から発展して、親世代は最終的に「興味を持たせないためになるべく発言しない」「グレーな容認か個人間の規制をして、気づくのを待つ」みたいな対応になる。なってしまう。
性愛を体験しないことに徹する「俗からの解脱」「辛い人に教えを説く側に立つ」「芸術表現を徹底する」というのも子供の選択のひとつではあるだろうし。子供の意思を尊重すればするほど対応が難しくなる。

子供も勘づいてはいて、しかし理由は体感しないことにはわからない……ってことが多いのかも。義務としてそれを男女(モノの有無)共に画一して教えることも難しく、なんだかんだで「最近の若者は」と言われる羽目になる、というのが繰り返されるのが現代的なシステムだと思う。

むしろこのシステムや傷心がわかるよう、(モノがある側に)直接広く語り掛けるべきな気もしなくはない。ただ大概の場合は言っても無駄で、もうそうなると性教育じゃなくて人間関係構築のお話になる。

そして何よりそういう性のキショさで真っ向から悩んでいる子とその親に対しては、「無理せず否定も肯定もせず待ってなさい」としか言えない気もする。「そういった話題でどう返答するべきか」に対する自分の回答はこれ。一般的な性の雑談なら「さぁ……?どっちでもいいよねぇ……」と自分に素直に答えればいいのかも。

社会の情報量、ネット人口が増えれば増えるほど拗らせも確実に増える。性教育に課題が山積みなのは、多分西暦が5桁になっても同じだと僕は思う。ネット人口どころか総人口減ってるけどね!

で、今現在しっかり悩む人に向けた部分はここだろう。

(前略)性愛をまつわるニヒリズムから一線を画そうとするならば、互いの関係の内実を見極め、つきつめて、それにふさわしい性愛規範を創案して自分たちの関係に課すよりない。(後略)

第4章 性愛倫理 4・8項 性/愛の分解 187p 『性愛論』橋爪大三郎 著

「ま、全員に適したアレだのコレだのないんで、おのれら2人か周りか知らんけど、自分らで決めやぁ~。」という感じだと思う。ここはかなり腑に落ちたというか、「実際そうだしな」という頷きがあった。ここまでせずとも、夫婦間のルールや決まりを制定するのは言わずもがな浸透しているし。

だからこそ今なにかがネックで悩む人達にかける言葉は「恋愛ってしょうもないよ」でも「いっぱい恋愛しな」でもなく、「そもそもはどうでもいいんよ」が僕としてはしっくりくる。

他人のソレにあんまり言及しない方がいいのは、この本を通して読んでも全くもって変わらない考え方だった。段階や期間を踏まないと破滅するのは、実例を聞いていても脳の快楽構造からしても当たり前っちゃ当たり前の話だ。

5章は性愛倫理の模造。いやまだ続くんか~い!!!と思った。もう気持ち的には締まったけどな。
性とテキストによる時代の流れの話に触れながら、ソレ(性技法本や詳細な性教育本)が世間にどう受け入れられたか、どこが評価できるか、どう混乱を招いたか、を客観的に述べている。

ただちょっとこの章から文庫本あとがきまでがジジ臭くて、読んでてイヤだった。その、著者はいたって真面目なんだけど、「それ言ってもしょうがないけどな」みたいな指摘が多い。鋭すぎる指摘としては大当たりであろうことが書いてある。言い方がずーっとムズいのも痒くなる。
1982年に書かれた勢いのある論なのに、先が見据えすぎてて怖い部分もあった。ジジ臭くもなるかあ。「挑発」とされるのはこの部分と終章なのかも。

終章が性愛世界の彼岸。と、同じ語り口調のあとがき。
性差に関してクーデター的になってしまうアレコレへの考察と、その後の論の展望……的なことかな?鋭いけど、鋭いだけ。欲しい知識や文章は全くなかった。ここらへんの挑発的な書き方は、もう半分わざとでもあると思う。

解説。2人分の冷静な解説があって、安心する読後感をくれた。
節々の暴走的な粗さ、共感しやすい鋭さを認めつつ「でもまだ実際わかんないし、読んでみた人が先を考えないとむりぽよね、書いてまとめてるだけすごいよね」って感じの書き方だった。猥人(ワイト)もそう思います。

いち個人としては満足。結論はそもそもないからぼんやりしているけど、愛情なんてすぐさまわかるはずもないものだな、みたいな心持ちを手に入れた。



そういえば、性や恋愛を詳細事情まで描いたフィクションに関して、「気持ち悪い」と一蹴されていることがある。基本的には検索のサジェストだとか、SNSだとか。
女性向けマンガや、憂鬱な展開のある青年誌掲載マンガ、同性愛や特定の層に向けた遅い時間帯のテレビドラマなど。嫌いじゃなくてもなんとなくひけらかしにくい部分はある。
気持ち悪いとされる根源を知ることで、さらに違和感なくエンタメを享受することも可能なのかもしれない。

マイノリティみな声を上げよう!なんて簡単なことではない。だとして、今声を上げても早急に声を上げる側の満足いくような結果(たとえば法改正)が出るような証拠も研究も医学も、どうやらまだない。
なんにせよ自分の世界を取捨選択できるのが一番だな~、なんて思えた。
個人にできることは知ることと、言葉を選ぶことくらい。

欲しい知識を得ることで、少しでも自分が生きやすくなることや生きにくい人を慮れることは、どういうコンテンツや情報に関連してもあるんだろうね~。

ここまで書いて思ったことは「僕って真面目なのかも」ということ。

今日も駅の改札前でやけに
イチャイチャしてるカップルみてヘコむ
家でやりよしや周りを見よしや
憧れんけどやっぱ羨まし

かわE/ヤバイTシャツ屋さん

ドン引きしているフラッシュモブMV、良いよね。(読書感想文を真面目に書きたくないので毎回なにかしら好きな曲を載せている)

こなまるでした。

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