宮沢賢治『銀河鉄道の夜』考察ー甲南読書会vol.15
読書会概要
甲南読書会vol.15 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
開催日時:2024/03/19
開催場所:甲南大学iCommons Book Cafe
参加者:12名(院生2名、学部生3名、職員1名、学外6名)
読書会の記録
切符について――第二次稿との違い
「銀河鉄道の夜」を語る上で、第一次稿から第四次稿に至るまでの変遷を欠くことはできません。
賢治は1924年ごろに「銀河鉄道の夜」を書き始め、晩年まで推敲を重ねました。現在一般に購入できる「銀河鉄道の夜」は最終稿である第四次稿ですが、これも中に数行・数字の空白が見られ、賢治の思う「完成版」であったとは言えないでしょう。
第一次稿と第二次稿では、前半部分は描かれていません。
切符の下りから物語が始まります。
第二次稿では、カムパネルラは切符を持っていません。ジョバンニがポケットを探ると大きな緑色の切符が入っており、これが二人分の切符となります。
第三次稿以降では、切符が別々になります。カムパネルラは鼠色の小さな切符、ジョバンニは「どこにでもいける」大きな紙を持っています。
この切符の変化は、その解釈を大きく変化させるのではないか、という指摘もありました。
2人で一枚の切符を持つのは、ふたりがともにある一体感を示すようにも感じられます。
しかし、最終的に二人の到着点は別々です。それを踏まえると、それぞれが違う切符を持っているほうが、しっくりくるような気もします。
切符とは、目的地を指し示すものです。
カムパネルラが小さな切符を当然として出す傍ら、ジョバンニは自分が切符を持っていることを知りません。ジョバンニは目的地を知らないのです。
でもジョバンニは「どこにでもいける」特別な切符を持っています。
「鉄道」が異世界への移動手段
「銀河鉄道」という言葉の美しさに圧倒されるという感想がありました。
この物語は、「銀河鉄道」に乗ってある種の〈異世界〉へ行く物語と言えます。
では、なぜ〈異世界〉への移動に、飛行機でも徒歩でもどこでもドアでもなく、「鉄道」が選ばれたのでしょうか。
『ハリー・ポッター』シリーズでも、魔法世界に行くために「鉄道」が扱われます。
〈異世界〉への移動手段として「鉄道」が扱われる理由として、
・車内での人との出会い
・移動しているのに、自分自身は停止している
という主に2つの要素が挙げられました。
〇車内での人との出会い
現代においても、電車に乗ると、知らない人と隣同士に座ります。
満員電車であれば、日常生活では考えられないほどの密着度で他者と接触します。
電車内は一つの公共空間で、瞬間的に他者が居合わせる場になるのです。
ジョバンニとカムパネルラは、車両の中で様々な人と出会い、会話をします。知らない人と会話を重ねることで、他者の世界を知り、時に内省します。
『ハリー・ポッター』でも、ハリーとロンがハーマイオニーと出会うのは車内でした。
つまり鉄道は、他者というひとつの〈異世界〉と出会う場所を持っていると言えるのではないでしょうか。
〇移動しているのに、自分自身は停止している
電車に乗ると、座ったままでずっと遠くまで移動することができます。
座ったまま動かない、という点で、「行動しない」とも捉えることが可能です。
しかし、重要なのは「行動しない」ように見せかけて、実際には「移動している」ということです。
そしてその移動は自分自身で決定できず、運転手・鉄道のレールという他者によって定められているのです。
「銀河鉄道の夜」における〈異世界〉は現世とは異なる「あの世」です。
誰しも「あの世」へ行くことは避けられず、自分自身でその「移動」を決定することはできません。
何者かによって「移動」させられ、それを受動的な態度で応答する。
鉄道の持つ特徴と〈異世界〉は、親近感があります。
カムパネルラのモデル
カムパネルラのモデルとして、賢治の学生時代の友人である保阪嘉内説と、妹トシ説が挙げられました。
嘉内は盛岡農学校時代の友人で、岩手山に一緒に登って銀河を眺めたというエピソードがあります。
最終的に喧嘩別れとはなるものの、賢治にとって憧れの存在だったと考えられる嘉内が、ジョバンニにとってのカムパネルラのような存在と捉えるのは違和感がありません。
賢治と嘉内はスケッチをするのが好きだったそうです。2人で電柱の絵を描いていたという話もあります。
ジョバンニとカムパネルラがわかれる直前、次のような景色が描写されます。
カムパネルラのモデルに、保阪嘉内があったことを示唆する一文と言えます。
一方、妹のトシであるという意見も紹介されました。
「銀河鉄道の夜」が書かれたのはトシが亡くなった後でした。
トシの死後、賢治は傷心旅行に出ます。そこで汽車に乗りながら、妹トシを想う詩を書きました。
ちなみに、この詩「青森挽歌」にも「でんしんばしら」は登場しています。
鳥を捕る人の役割
ジョバンニたちは銀河鉄道の車内で「鳥を捕る人」と出会います。
読書会ではこの人の役割について話が及びました。
「茶いろの少しぼろぼろの外套を着て、白い巾でつつんだ荷物を、二つに分けて肩に掛けた、赤髯のせなかのかがんだ人」(p.216,新潮社)と描写があります。
鳥捕りは、捕った鳥をジョバンニたちに食べさせます。けれどもその味はお菓子のようで、まったく鳥ではありません。
これは、〈異世界〉のものを食す、というシーンであると捉えることが出来ます。この違和感はよもつぐへいを想起させる働きを持っていると言えるでしょう。
『千と千尋の神隠し』でも、千尋の両親は〈異世界〉のものをたくさん食べてしまい豚になるという描かれ方がなされています。
食べると元の世界に戻れないのがよもつぐへいですが、摂取しなければ〈異世界〉に馴染むことはできません。
千尋は食べなかったことで体が透けていきます。でもハクからもらったおにぎりを食べることで〈異世界〉に馴染むことが出来たのです。
同じように、ジョバンニも少しだけ鳥を食べました。鳥捕りにもっと食べるよう促されましたが断っています(鳥捕りからだけでなく、燈台看守からもりんごをもらっていますが、食べずにポケットにしまっています)。
鳥捕りは、食べ物を用いて〈異世界〉へとジョバンニを促す役割を持っていたと言えますが、読書会参加者から、キリスト教におけるペトロと鳥捕りの近似についても意見があがりました。
ペトロは元漁師で、イエスの一番弟子となります。
ペトロはおっちょこちょいな性格ですが、イエスは天の国の鍵を彼に与えます。イエスからのペトロへの信頼の大きさが伺えます。
鳥捕りが唐突にやってきて唐突に去った後、ジョバンニはしんみりとした気持ちを吐露します。
鳥捕りはジョバンニに反省を与える存在だったと言えます。
ただ受動的に銀河鉄道の列車に座って移動するジョバンニに、自己犠牲の精神を思い起こさせたのです。
鳥捕りがペトロであれば、ジョバンニがイエスとなるのでしょう。
賢治の持つ科学への関心と信仰
「銀河鉄道の夜」は科学の要素が多く詰め込まれています。
1922年にアインシュタインが来日したこともあり、「相対性理論」ブームが沸き上がっていたこのころ、賢治も強い関心を持っていたことが伺えます。
読書会では「科学」と「信仰」についての話も盛り上がりました。
偶然にも、賢治の学友でのちに「注文の多い料理店」を発行する近森善一の親族が参加者におり、賢治個人に関する詳しい話をいくつも紹介していただきました。
賢治は法華経に傾倒し、坊主頭で上野駅に立ち布教活動に精を出していたところを先生に見られ頭が変になったと思われたこともあるそうで、大変な変わり者扱いを受けていたようです。
科学と信仰は別個にあるものではないですが、当時の科学への希望のまなざしは、今の私たちとは随分異なるのではないか、という意見がありました。
正しい信仰がなんであるかを科学が証明可能ではないかとすら考えられていたとも紹介があり、科学が「真実」――哲学や人文学を含めた上での「真実」――をすべて証明しうる、そのような希望があったのではないかと思います。
「幸(さいわひ)」から見える博愛主義
終盤に次のようなジョバンニの言葉があります。
この部分、第一次稿では
ほんとうのみんなの幸、おまえのさいわひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない
となっていました。
この「おまえ」はカムパネルラのことです。
第二次稿以降では、「おまえのさいわひのためならば」というセリフが消去されているのです。
賢治は博愛主義の人だったと考えられています。
「青森挽歌」には次のような言葉があります。
みんなむかしからのきやうだいなのだから
けつしてひとりをいのつてはいけない
賢治は人類、自然、世界への愛を、普遍的で膨大な愛を持とうと努力していたのではないでしょうか。
博愛主義に「特別」はありません。特別な個人への愛ではなく、全てへの愛があるのです。
しかし、「特別な感情」について、ほんのすこし、言葉を濁します。
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます
「おもひます」というこの濁し方からは、博愛主義であろうとしても、時に「特別」を持ってしまいそうになる人間らしさが伺えます。
「おまえのさいわひ」という言葉のある第一次稿では、特別な人への特別な思い、他の人へとは異なる特別な感情があったのではないでしょうか。
しかし賢治は博愛主義者であろうとしました。だから第二次稿からは「おまえ」のさいわひは祈りません。
「おまえのさいわひ」と、「みんなの幸」。
同じ「幸(さいわひ)」であっても漢字とひらがなで区別しているのは偶然ではないでしょう。
三つの「溺死」から見える自己犠牲
「銀河鉄道の夜」には何度も、「ほんとうの幸」という言葉が登場します。
そして「ほんとうの幸」のためには、自己犠牲が見えてきます。
みんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない、のです。
「百ぺん灼」くのは、作中で紹介されるさそりの物語からの引用です。
この物語でさそりは、いたちから逃げて井戸に落ちてしまいます。でもさそりは溺れながら、いたちに食われるべきだったと嘆きます。そうしたらいたちが一日生きることができたのに、と。
溺れる――溺死というモチーフは、他にも見ることが出来ます。
銀河鉄道の車内で出会う青年と幼き姉弟は、船が沈んでここへ来たと話します。青年は救急ボートに子供たちを乗せようとしましたが、すでにボートは満員で、ボートの近くには他の人々もまだ多くいます。青年は彼らを押しのけることはできず、姉弟をしっかり抱いて、渦にのまれ海の底に沈んでいきます。
カムパネルラは、ジョバンニによく意地悪をするザネリを助けるために川へ落ちてしまいます。
さそり、青年、カムパネルラ、この3つの溺死のパターンには共通点があります。
それは、他者のための自己犠牲であることです。
「ほんとうの幸」、「みんなの幸」のための自己犠牲が一貫して描かれているのです。
そしてなんといっても、ジョバンニにとって憧れの、親友の、大切なカムパネルラは、自身に意地悪をするザネリのために死にます。
賢治の抱く理想の愛に「特別」はありません。
カムパネルラのお父さんは、自分の子が亡くなったというのに飄々としています。
最初に読んだときは冷淡なお父さんの姿に恐ろしさを覚えたものの、読書会を通して賢治の博愛主義を知ると、自分の子への「特別」な愛を持たないお父さんこそ、理想的な博愛主義者とも捉えられるのではないかと思います。
おわりに
賢治の生前に著作の出版を全面的に支援した近森さんの親族の方によると、本は全く売れず、蔵に大量の在庫を抱えてしまったそうです。
賢治はそれを悪く思って100冊ほど引き取ったとのエピソードが紹介されました。
そもそも出版に至るにあたって、賢治は「子どもたちに読ませて、面白がってくれたら出版しよう」と考えたそうです。
賢治作品は今現在、国語の教科書にも載っていて、たくさんの子供が読んでいます。
読書会では、賢治の物語はつらく哀しい、暗いトーンの作風であることに指摘がありましたが、「子どもたちに面白がって読んでほしい」という率直な気持ちに温かくもなる、良い読書会になりました。
次回のお知らせ
次回の課題図書は大江健三郎「個人的な体験」を予定しています。
四月のどこか平日、夕方から甲南大学にて行います。
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