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石垣りん「藁」について —ヒューマニティが宿るものとは—

   藁 石垣りん

  午前の仕事を終え、
  昼の食事に会社の大きい食堂へ行くと、
  箸を取り上げるころ
  きまってバックグラウンド・ミュージックが流れはじめる。

  それは
  はげしく訴えかけるようなものではなく、
  胸をしめつける人間の悲しみ
  などでは決してなく、
  働く者の気持ちをなごませ
  疲れをいやすような
  給食がおいしくなるような、
  そういう行きとどいた配慮から周到に選ばれた
  たいそう控え目な音色なのである。

  その静かな、
  ゆりかごの中のような、
  子守唄のようなものがゆらめき出すと
  私の心はさめる。
  なぜかそわそわ落ち着かなくなる。
  そして
  牛に音楽を聞かせるとオチチの出が良くなる、
  という学者の研究発表などが
  音色にまじって浮かんでくる。

  最近の企業が、
  人間とか
  人間性とかに対する心くばりには、
  得体の知れない親切さがあって
  そこに足の立たない深さを感じると、
  私は急にもがき出すのだ。

  あのバックグラウンド・ミュージックの
  やさしい波のまにまに、
  溺れる
  溺れる
  溺れてつかむ
  おおヒューマン!

  

 この詩は、「企業というものは、表向きはそれとは分からぬようにしているが、実はそこに勤めている人間を搾取しているのではないか」という問題提起をし、戦後の日本社会の在り方に鋭く切り込もうと試みた作品である。
 具体的にどのような切り込み方をしているかというと、それは、企業の食堂に流れるバックグラウンド・ミュージックに対する批判という形を取っている。働く者の疲れを癒すようなバックグラウンド・ミュージックの音色は、一見、優しさの籠もったものであるように感じられる。他の多くの勤め人は、この音色に何の疑問も抱かないだろう。しかし、語り手は、この音色に、「牛に音楽を聞かせるとオチチの出が良くなる」という話を連想し、警戒している。つまり、企業は、この音色によって勤め人の疲れを一度取り、その上で、さらに働かせようという腹づもりなのではないかと、彼女は疑っているのだ。
 そのような、バックグラウンド・ミュージックの音色の「得体の知れない親切さ」に、語り手は「足の立たない」、深い水の中にいるような感覚に囚われる。そして、その水の中で溺れてしまうという空想をする。この空想の中で、語り手は、あるものを掴む。それは、タイトルにもあるように、藁であった。なぜ藁なのかというと、「溺れる者は藁をも掴む」ということわざがあるが、ここではそれを踏まえているからだ。空想の中で藁を掴んだ語り手は、「おおヒューマン!」と叫ぶ。ここで彼女は、藁という、単なる言葉の綾として登場させたものの意味を、働く人の労苦の象徴という意味へと転換させている。そして、彼女はそのような藁に、“ヒューマニティ”を感じるのである。藁というと農業のイメージがあり、企業に勤める人とはそぐわない、と思う人もいるかもしれない。だが、汗水垂らして泥臭く働く人間の苦しみを知り、彼らに寄り添う存在として、藁は最も相応しいと、私は考える。この藁は、真に人間の労苦への慈しみを湛えたものとして、うわべだけの優しさをまとった例のバックグラウンド・ミュージックと対置されている。
 ところで、藁は、元々は言葉の綾として登場しただけのものである。つまり、「すがるもの」の比喩として使われているのであるが、肝心の、「藁」に喩えられる「すがるもの」は作中には登場しない。その、実体のない比喩に、語り手は “ヒューマニティ”を見出しているため、ここにはある種の諧謔がある。
 なお、作中には「藁」という語は登場しないが、これはあえて伏せられているのだと私は解釈した。語り手が「溺れてつか(んだ)」ものが何なのかを、作中では伏せておいて、タイトルでその答えを明かす、言ってみれば謎々のような形式を取っている詩である。
 以上より、この詩は、企業というものは、実は働く者の苦しみを蔑ろにしているのではないかという主張を、諧謔を交えながら展開している作品だと言える。

 

 

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