こなつ

文学作品が好きです。

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最近の記事

女性の領域 —新川和江の詩「路上」について—

 今回は、詩人・新川和江の「路上」という詩について見ていきます。    路上 新川和江   おとうふを買いに行って   はからずも 母に会った   おとうふを買いに行かなければ   会えないおかあさんだった   陽がやや傾きかけた時刻   容れものを持って   西のおとうふ屋へ   おとうふを買いに行かなければ   ——わたしも 会いたいわ   この頃すこし老けた妹が   しおらしいことをいうので   ある午後誘って   おとうふを買いに行く   水を張ったボールに  

    • 実感に訴えかける作品 —北川冬彦の詩「馬」について—

       今回は、北川冬彦の「馬」という詩について見ていきます。この詩を引用するに当たって、歴史的仮名遣いは現代の仮名遣いに改めました。    「馬」      軍港を内臓している。  この詩は、一見、謎めいた作品であるかのように思えます。タイトルの“馬”というのは、あの動物の馬のことですが、この詩はなんと、馬という生き物が「軍港を内臓している」のだと主張しているのです。言うまでもなく、実際には、馬の身体の中に「軍港」は存在しません。このように、この詩は、事実とは異なることを主張

      • <際>に立つ作品 —石垣りんの詩「水槽」について—

         今回は、詩人・石垣りんの「水槽」という詩について見ていきます。    水槽 石垣りん   熱帯魚が死んだ。   白いちいさい腹をかえして   沈んでいった。   仲間はつと寄ってきて   口先でつついた。   表情ひとつ変えないで。   もう一匹が近づいてつつく。   長い時間をかけて   食う。   これは善だ、   これ以上に善があるなら……   魚は水面まで上がってきて、いった。   いってみろよ。  石垣りんの詩篇は、そのほとんど全ての作品が、凄みを湛え

        • 当たり前のことを疑う —谷川俊太郎の詩「誕生」について

           今回は、詩人・谷川俊太郎の「誕生」という詩について見ていきます。    誕生 谷川俊太郎   頭が出かかったところで赤ん坊がきく   「お父さん生命保険いくら掛けてる?」   あわてておれは答える「死亡三千万だけど」   すると赤ん坊が言う   「やっぱり生まれるのやめとこう」   妻がいきみながら叫ぶ   「でも子供部屋はテレビ付きよ!」   赤ん坊は返事をしない   猫撫で声でおれは言う   「ディズニーランドへ連れてってやるぜ」   赤ん坊がしかつめらしくおれを見

        女性の領域 —新川和江の詩「路上」について—

          コードの通じない語り手 —太宰治の小説「親友交歓」について—

           今回は、太宰治の短編小説「親友交歓」について見ていきます。  これは、作者の太宰自身であると考えられる語り手の許に、一人の男が訪ねてくる話です。東京において戦争で罹災したために、津軽の生家に避難していた語り手は、そこで小学校の同級生だと名乗る男の来訪を受けます。その男は百姓であり、東京で文学者として成功した語り手に対して、しきりに色々な物をたかります。要するに、勝手に「親友」を名乗るしたたかな田舎者にたかられた、という話なのですが、語り手はこの話をする前に、十全な前置きをし

          コードの通じない語り手 —太宰治の小説「親友交歓」について—

          愚かで卑しい存在 —深沢七郎の小説「無妙記」について—

           今回は、深沢七郎の小説「無妙記」について、見ていきたいと思います。  この小説は、一見、大変難解に思える小説です。作品は、京都を舞台にしていて、腕に神経痛を抱えた骨董屋の男が、アパートの隣室の会話を盗み聞きするところから始まります。物語は途中まで、この腕の神経痛の男や、隣室にいる三人の大学生たちについて描写しています。しかし、作品には途中から、「白骨」という言葉が異常にたくさん現れるようになります。その例を示すと、まず最初に、語り手がその大学生の内の一人について、  この

          愚かで卑しい存在 —深沢七郎の小説「無妙記」について—

          光り輝く真実 —村上龍の小説「OFF」について—

           今回は、村上龍の短編小説「OFF」について見ていきます。  この作品には、一人称が「あたし」である語り手が登場します。この「あたし」は売春婦であり、作品は、全篇、性と暴力にまつわる描写で満ちています。そのような描写の合間に挿入されるのは、「あたし」が中学生だった頃の思い出にまつわる話です。「あたし」は、中学生の頃、上級生のヤマグチさんという男子に恋をしていました。ヤマグチさんはブラスバンド部で指揮をしていたため、「あたし」は、何も楽器ができないのにも拘わらず、ブラスバンド部

          光り輝く真実 —村上龍の小説「OFF」について—

          孤絶した場所にいる存在 —夏目漱石の小説「坊つちやん」について—

           今回は、夏目漱石の小説「坊つちやん」について見ていきます。  この小説は、一人称が「おれ」である人物の語りで展開されます。この「おれ」については、精神のありようが、ほんの少しおかしい、そんな人物であると言えます。では、一体、どこがおかしいのでしょうか。それについては、登場人物である清の言葉を借りたいと思います。清は、「おれ」の性格について、「真っ直」(まっすぐ)な気性である、と評しています。その「真っ直」というのは、「おれ」自身の言葉を用いるならば、「単純」あるいは「真率」

          孤絶した場所にいる存在 —夏目漱石の小説「坊つちやん」について—

          偏りなく現実を見つめる —太宰治の小説「男女同権」について(再び)—

           以前、太宰治の「男女同権」という小説について解釈しましたが、今回は、この小説について、解釈し直したいと思います。  この小説は、一人の老詩人が、「男女同権」というテーマの下に講演を行った、その講演の速記録という形を取っています。しかし、この老詩人は、世間一般で言う「男女同権」の主旨をまるで理解していなくて、本当は、「男性に対して、女性の権利を主張する」という理念であるのに、その逆の、「女性に対して、男性の権利を主張する」というものだと思い込んでいる、無智な人物なのです。なぜ

          偏りなく現実を見つめる —太宰治の小説「男女同権」について(再び)—

          人類全体が眠っている —谷川俊太郎の詩「午の食事」について—

           今回は、詩人・谷川俊太郎の「午の食事」という詩について見ていきます。    午の食事 谷川俊太郎   そうして雲の多い空の下にもまたふたたびあの楽しい午の食事が廻って  来る。不幸に耐えながら不安に耐えながら沢山の家庭がまたあの楽しい午  の食事をしたためる。どんな場合にもそれはあわれに楽しい午の食事だ。  離婚の日の誕生の日の卒業の日のそして又死の日の午の食事だ。滅びるこ  とを知っている僕達のあわれに楽しいひとときなのだ。どこからか午の円  舞曲がきこえてくる、白い

          人類全体が眠っている —谷川俊太郎の詩「午の食事」について—

          目をつむって生きている私たち —谷川俊太郎の詩「はな」について—

           今回は、詩人・谷川俊太郎の「はな」という詩について見ていきます。    はな 谷川俊太郎   はなびらはさわるとひんやりしめっている   いろがなかからしみだしてくるみたい   はなをのぞきこむとふかいたにのようだ   そのまんなかから けがはえている   うすきみわるいことをしゃべりだしそう   はなをみているとどうしていいかわからない   はなびらをくちにいれてかむと   かすかにすっぱくてあたまがからっぽになる   せんせいははなのなまえをおぼえろという   だけ

          目をつむって生きている私たち —谷川俊太郎の詩「はな」について—

          <優しい社会>とは —高橋新吉の詩「物」について—

           今回は、詩人・高橋新吉の「物」という詩について見ていきます。    物 高橋新吉   物は無限にあるから 何でも人にやるがよい   命などは殊に人にやるのがよいのだ  この詩の語り手は、変なことを主張する人物です。この語り手は、まず、「物は無限にあるから 何でも人にやるがよい」と言っています。この主張に関しては、その内容に納得することができます。私たちは、この語り手に対して、気前の良い人なのだな、と思い、この人は善い人だ、と判断して、思わず笑顔になることでしょう。し

          <優しい社会>とは —高橋新吉の詩「物」について—

          公平な語り手 —谷川俊太郎の詩「ゆめのよる」について—

           今回は、詩人・谷川俊太郎の「ゆめのよる」という詩について見ていきます。    ゆめのよる 谷川俊太郎   たろうは ゆめのよるに   ゆめのふとんを かぶって   ゆめのねしょんべんを しながら   ゆめのゆめを みてるまに   ゆめのパジャマを きたまま   ゆめのしんくうそうじきに   すいこまれてしまった   というゆめを みながら   かんけいないよ と   じろうは おもった   さぶろうはと いえば   まだおきていて テレビをみている   そしてしろうは 

          公平な語り手 —谷川俊太郎の詩「ゆめのよる」について—

          物事を本当に信じるということは —谷川俊太郎の詩「なくぞ」について—

           今回は、谷川俊太郎の「なくぞ」という詩について見ていきます。    なくぞ 谷川俊太郎   なくぞ   ぼくなくぞ   いまはわらってたって   いやなことがあったらすぐなくぞ   ぼくがなけば   かみなりなんかきこえなくなる   ぼくがなけば   にほんなんかなみだでしずむ   ぼくがなけば   かみさまだってなきだしちゃう   なくぞ   いますぐなくぞ   ないてうちゅうをぶっとばす  この詩は平仮名で書かれていることから、語り手は幼い子供であることが推測され

          物事を本当に信じるということは —谷川俊太郎の詩「なくぞ」について—

          冷静な思考 —谷川俊太郎の詩「ごちそうさま」について(再び)—

           以前、谷川俊太郎の「ごちそうさま」という詩について書きましたが、今回は、この詩について、もう一度、解釈し直したいと思います。    ごちそうさま 谷川俊太郎   おとうさんをたべちゃった   はなのさきっちょ   こりこりかじって   めんたまを   つるってすって   ほっぺたも   むしゃむしゃたべて   あしのほねは   ごりごりかんで   おとうさんおいしかったよ   おとうさんあした   わたしのうんちになるの   うれしい?  この詩の語り手は、自分の「お

          冷静な思考 —谷川俊太郎の詩「ごちそうさま」について(再び)—

          魅力的な人物 —高橋新吉の詩「じゃがいも」について—

           今回は、高橋新吉の「じゃがいも」という詩について見ていきます。    じゃがいも 高橋新吉   一つのじゃがいもの中に   山も川もある  この詩の語り手は、変なことを言っている人物です。「一つのじゃがいもの中に/山も川もある」。じゃがいもの中には当然、山も川もありませんから、この人物の言うことは、一見、デタラメであるように思えます。  しかし、実際に、じゃがいもをよく観察してみてください。すると、たしかに、じゃがいもの中には、山のようなものや、川のようなものがある

          魅力的な人物 —高橋新吉の詩「じゃがいも」について—