川田絢音「グエル公園」を読む

わっと泣いていて
夢からさめた

夏の列車
知らない人に寄りかかって
眠っていた

汗をかいて
グエル公園に登ると
りゅうぜつらんのとがったところで
鉄の棒をもった少年たちが
コツコツ 洞窟のモザイクをはがしている

青空に 近い広場で
好きな人を
ひとりづつ 広場に立たせるように思い浮かべていて
酢みたいなものが
こみあげた
ここで みんなに 犯されたい

 まず、詩を一読すると、語り手が「グエル公園」という場所に赴く、という事柄が描かれているのが分かる。「グエル公園」とは、スペインのバルセロナにある世界遺産の公園である。ここでは、作品の舞台が外国であるということを、まずは頭に入れておく。
 次に、第一連はとりあえず飛ばして、第二連の内容から見ていこう。「知らない人」という言葉が登場するが、これはキーワードの一つである。外国にいるから、「知らない人」に囲まれているのだと考えられる。
 さらに、第三連を見てみると、「鉄の棒をもった少年たちが/コツコツ/洞窟のモザイクをはがしている」とある。ここで、この「少年たち」に対する描写が、第四連の「みんなに/犯されたい」を彷彿とさせることに気がつくべきである。つまり、語り手は、「少年たち」が皆でモザイクを剥がす姿を見て、「みんなに/犯され」ることを連想し、そうした願望を抱くに至るわけである。
 その第四連をより詳しく見てみると、「好きな人」という語が登場する。これは、第二連の「知らない人」の反義語として使用されている。具体的には、語り手の、過去(日本にいた頃)の恋人達を指しているかと思われる。
 また、第四連には、「ひとりづつ」という語も出てくる。これは、「みんなに」という語と対になっている。
 さて、この「ひとりづつ」という表現を読んだ時、我々は、他人との恋愛は、本来、一対一の関係であることに気づく。このことは、何を意味しているか。それは、語り手の過去の恋愛の相手は、一人一人が、語り手の異なる姿を知っている、ということである。とすれば、「みんなに/犯されたい」というのは、他者の知る様々な自己の姿を掻き集めたい、という語り手の欲求ではないのか。
 ここで初めて、「知らない人」に囲まれるということは自己を喪失することだ、というのがこの詩のテーマだと明らかになる。異郷に在ることの孤独、と言うこともできるが、一般的なそれではなくて、今述べたような、「他者の中にこそ自分がある」という作者の思想を内包するそれである。この思想そのものは、特に斬新であるとは言えないが、「酢みたいなものが/こみあげた」と言うくらい、皮膚感覚の感情によってその思想を実感する人はそういまい。ここに、この詩人の独自性がある。
 ここで、第一連に戻ろう。夢で泣いた、という内容が、ここまでの読みを裏付ける。つまり、語り手は自己喪失感に囚われていたため、夢の中でも涙していたのである。
 ところで、「みんなに/犯され」るという表現は、通常用いられる意味とは違うのだということを、ここで改めて強調したい。この作品では、それは、“「他者の知る自己」の総体を合計すること”という意味で用いられている。この表現は交換不可能である。例えば、「みんなに会いたい」では、「他者の知る自分」を足していく、というニュアンスが表現できない。だから、この作品で描かれる「他者との関係」は、ただの交友関係ではなく、恋愛関係でなければならないのである。
 以上より、この詩は、「他者の中にこそ自己はある」という思想に基づいている。異郷に在るということは、だから、自己を喪失することなのである。

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