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山田詠美「ブーランジェリー」について —「概念」を抱かない男—

    今回は、山田詠美『タイニーストーリーズ』所収の「ブーランジェリー」という小説について書く。
 この話を簡潔に纏めると、以下のようになる。

 語り手の女性は、パン職人の圭太という人物と恋仲になる。圭太の営むパン屋で、接客を担当しているのは、彼の弟である。黙々とパンを捏ねる作業に没頭する圭太に対し、弟は、人好きのする明るい性格であり、二人は対照的だ。そこで、語り手は、圭太のことを「陰のパン屋さん」、弟のことを「陽のパン屋さん」と呼んでいる。圭太も、語り手に「アザミ」というあだ名をつける。
 さて、物語では、そんなアザミと圭太の情事の場面が繰り広げられる。圭太と情事を重ねるにつれ、アザミは、自分が完成されていくような感覚を味わう。アザミは、彼の行為は、全て彼の自分に対する愛によるものであると思い、幸せを感じていた。
 ある日、二人が情事をしていると、ついに彼女は自分が完全に「完成」された気分を味わった。ことが終わった後、気を失ってしまった彼女の許へ、ある人物が訪れる。それは、なんと、「陽のパン屋さん」である弟だった。弟は、アザミの体中に付いている圭太のキスマークを見て、

  「ほんとだ、ほんとだ、本当にアザミパンだね」(山田詠美『タイニーストーリーズ』文春文庫、p,228)

 と言う。そして、彼は「試食」と呟いて、アザミの肌に触れた。

 これが、「ブーランジェリー」の内容である。お分かりのように、これは、アザミが圭太の弟に犯されてしまうという衝撃的な結末を持つ話である。しかし、弟が「ほんとだ」と言っていることから、弟は圭太からアザミの存在を聞いていたのだと読める。さらに言うと、圭太は弟にアザミを提供するために、彼女を「完成」へと導いたのではないかとさえ考えられるのだ。
 このように、愛の物語であるかと見えたストーリーは、最後にどんでん返しを迎える。読み進める際の意外性を期待してこの小説を読むと、このどんでん返しは、十分に面白い結末であると言える。だが、この小説を一度読み終わり、内容全体を俯瞰して見た時には、それはただ面白さを提供してくれるだけではなくて、必然の展開として感じられるはずだ。その理由を、以下に説明したい。
 まず、圭太は結果的にアザミを騙していたことになる。しかし、ここで注意してほしいのは、それはあくまでも「結果的に」そうなっただけであり、実際は圭太はアザミに何一つ嘘を付いてはいない、という点である。彼は、黙々と自分の仕事をこなしただけである。しかし、結果的には彼女を騙しているわけだから、彼の人物像は「正直である」というのとは、また違う。道徳意識がないようなのに、絶対に嘘はつかない。彼の存在に注目すると、彼はまるで、何も考えていないかのような人間なのだと分かってくる。そう思うと、だんだん、圭太の異質さが感じられてくるだろう。
 そのことをより顕著に表しているのが、次の事柄である。すなわち、圭太とアザミの情事は、アザミにとっては愛の営みであったが、圭太にとってはそうではなく、ただ丹精を込めた作業であった、ということである。彼は、愛などにはまるで興味がないようである。このことは、彼が、抽象的な概念を全く重視せず、具体的な作業に打ち込むことを大切にして生きているということを示している。作中で、彼の口から語られる、具体的な作業(パンをこねること)への愛も、肉体的な快感がその愛の理由として挙げられるだけで、思想めいたものは何一つ、窺えない。
 では、圭太は、頭を全く使わない、いわゆる“馬鹿”なのだろうか。そうではないと、私は思う。世の中に実在する、「頭の中まで筋肉で出来ている」と評される人々も、愛などの抽象的な思想を抱いて生活している。また、圭太は、職人肌の人間なのかというと、それも違う。実際の匠と呼ばれる人々も、同じように、愛などについて考えていることが想像されるからだ。
 このことから、圭太は、抽象的な概念を一切持たない、極めて稀有な人間なのだということができる。この作品は、そのような稀有な人格を描き出すために、書かれたのではないだろうか。圭太が愛という概念を重視していないという事実は、だから、単なるどんでん返しではなくて、作品の核を担う、必然の設定なのである。

 

 

 

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