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一緒に居たい人 またつづき

書き出したものの、なかなか進まないな。。
気持ちとぴったりくる言葉を選ぶ。
伝わるように文章を作る。
  …難しいなぁ。
けど、こころは、なんらかの言葉を付けてもらって外に出て行く "当時の気持ち" を眺めながら、"嬉しい"と感じている気がする。

また、わたしの昔話に戻ります。

目にされた方にとっては、すごく不謹慎な文章になってしまうかもしれません。

この気持ちは夫にしか話したことがないです。中学生だった、当時のわたしの気持ちです。

阪神大震災の時、父は神戸に単身赴任中でした。
その時の思いを書きたいのですが、その前置きも書きたくて。
しかも長いです…

前の年に、姉は宗教繋がりの知人が仲人をかってでてくれたそうで、お見合いで結婚をしていたので(お相手は無宗教、というか一般家庭でいう仏教です。そして義兄はとてもユーモアのある明るくてほんとうに良い人です。)、その時、わが家には母と兄とわたしが3人で暮らしていました。

そのまた前の年に、県外の大学に下宿で通っていた兄が、錯乱状態で帰ってきていました。
正確に言えば、かなり錯乱の度合いは酷かったので即入院でした。

兄の様子の変化を、兄と同じ大学に通う共通の知人から聞いた姉が、母と一緒に下宿先に向かうと、人が変わったようになってまともに話もできない兄がいました。
あの状態を、どうやって電車に乗せて帰ってきたのか、姉は必死すぎて記憶がないそうです。

どういう経緯で、その精神病院に行くことになったのかは聞いたことがなくて知りませんが、隔離病棟に入っていた兄は "刑務所に入れられている" と思って恐ろしくて一日中叫んでいたそうです。(恐らく、多量の薬が出ていたと思うので、兄は「一日中」と言っていましたが、本人の感覚の範囲なのだと思います。)
母は毎日病院に通いました。
面会できる日と面会できない日があったようですが、隔離病棟で全裸になって叫んでいる兄を見て、どんな気持ちだったろうと思います。
母は一層、宗教に必死になりました。

数ヶ月経って家に帰ってきた兄は左右に口が裂けていました。
目の動きは思考と連動していないし、わたしの知っている姿とは違っていました。

全くわからない言葉を喋り、どこを見ているのか何を思っているのかも分からない、よだれを垂らしながらわたしを見て薄く笑ってくる人を、怖いと思う自分に、罪悪感を覚えました。

いろんな感情が溢れて、でも、家の中の穴を埋めることを必死にするしか、わたしの選択にはありませんでした。
トイレに行くのもお風呂に行くのも、ドアの向こうの兄の動きを探って、気持ちを整えてからじゃないとできなくて、その時期はよく膀胱炎になりました。あぁ、当然だな。。

父は "こういう病気は難しい" と言いました。
何もかもに必死なのは母でした。
でも、家を一歩出れば何事もないように、2人ともいつもとそう変わらない様子にしていました。
それを見て、わたしも一切兄のことは外でしゃべりませんでした。

それどころか、そこそこ大人になるまで、家族にも恐怖や不安な気持ちを打ち明けませんでした。
ひたすら自分で握りしめて、気持ちに名前を付けないように、それだけを頑張っていました。

どんな気持ちになっても、家の形が崩れないように…これはわたしにしか出来ないミッションだ。と思ってどこか誇らしい気持ちを含ませる事で自分を支えていたのかなぁと、いま振り返れば思います。
家の中では笑うことも悲しむことも好まれないなら、、そうか。おどけたり、自虐で笑わせたり、うん、まだできることはありそうだ。
そう思うと、小さくても何か希望の灯りみたいなものがありました。

また遡りますが…
わたしがまだ小学生だった時、年度始めに学校から学年の名簿を持って帰ると(当時は学年全員の家の電話番号が載っていたので)母は片っ端から勧誘の電話をかけました。

「夕方の忙しい時間にごめんなさい。」
という出だしで、たいがい始めるので、
"じゃぁ、掛けないで良いのに…"
と思っていました。

入会したての母は、まだ訳もわからないうちに勧誘の係にさせられていました。
毎月◯人を連れてくる、とノルマが課されていて、もともとが真面目で尚且つ、兄の不調と姉のひどい喘息を治してあげたいと必死だった母は、
やたらと笑顔できらびやかな服装をした
"人の弱みに付け込んでくる自己顕示欲の塊"
のおばさん達に呑み込まれていました。

当然、わたしも無傷では居られなくて、昨日まで仲良しだったはずの女の子たちに休み時間廊下に呼び出され、
「私のお母さん、◯◯ちゃん(わたしです)のお母さんから変な電話掛かってきて迷惑してるよ!すごく嫌だって怒ってるよ!」
となりました。

いま思えば、とてもその子たちの気持ちが分かります。
そんな電話は迷惑以外の何物でもないですし、お母さんが困っていたら、子どもはお母さんを困らせる対象を嫌いになってしまうでしょう。とても自然なことです。

"迷惑かけてしまっているのはお母さんだ"
とわかっていても、悪く言われて悲しいのと、まだどこかに
"本当はわたしのお母さんが正しいのかもしれない"
という気持ちもその時は捨てきれませんでした。

「お母さんがしていることをわたしに言われても困る。わたしが謝ることじゃない。
嫌だったらお母さん同士で話したらいいことだと思う」

と、言って先に1人で教室に帰りました。
胸はズキズキしていたし、何回も頭でリプレイしては「わたしは間違ってない」と思い込もうとしました。
でも、変な空気はあっという間に全体に広がりました。
子どもたちだけじゃ無く、保護者が学校に来るような行事では、以前はよく話しかけてくれていたお母さんたちから、わたしだけ居ないかのように視界に入れてもらえなくなりました。

毎日流れに任せていれば楽しく過ごせていた休み時間が、1人になりました。
これが「◯◯◯」かなぁ。。とぼんやりと思っていました。言葉の名前は頭の中で出さないようにしました。
嫌な手紙が下駄箱に入っていたり、ノートを踏まれたり、わたしが友達に話しかけると割って入って「あっちに行こう」とその子を連れて行く。
音楽の準備室の黒板にわたしの名前を書いて嫌な言葉を言いながら的当てをしていた…という話を(わたしは見ていなくて)他の子が教えてくれることもありました。
その時に「大丈夫?」と心配されるのが余計に惨めさが形になるようで嫌だった。
(思えば、わたしもプライド高いんだろうなぁ)

そっか、あの子たちはいつもわたしの動きを見ていて、わたしがツライ思いをするのを楽しんでいるのだなと、しばらく経ってから気づきました。

だいたいの子たちが変な空気は感じながらも当たらず障らずな中で、「お前、嫌がらせされてるんじゃないん⁈」と言ってからかいながらも一緒に時間を潰させてくれる男の子たちのグループがいました。
側でバカなことを言ったりやったりして賑やかにゲラゲラ笑うので、だいぶ気持ちが救われました。
(当時はそこまで大層に思っていなかったけど)

テレビの話や音楽や漫画の話にもなって、兄の影響で見たり聴いたりしていた当時ちょっとマニアックなものが、たまたまその子たちの好みと合っていて、「おまえんちそれあるの?いーなー!」みたいになって。
ちっちゃなことだけどその言葉と表情が嬉しかった。
そして、やっぱり兄の好みは"外に繋がる"、という感覚や、兄の感性をわたしは好きだなと再認識しました。

わたしはたぶん我慢はできるタイプのようで、肩身は狭くなりながらも、

"学校休んだらわたしの負けみたいで悔しいから休みたくない(居ないところで色々言われるのは嫌だ)"という気持ちと、
(その時はそれを選びましたが、今となっては最良だとは思っていません。のちのち、後遺症のように色々残りました。)

“喧嘩両成敗"にはしたくないから、何されても悪口とグチは言わない。言うならその時に直接本人に言う。"
と決めて何とかそのようにしていると、
ある日、終わりを迎えました。
最初にわたしを廊下に呼び出した女の子2人からの手紙が、帰りの会後に、ランドセルと机の間に挟まっていました。
「今までひどいことしてごめんなさい。
これからもずっと親友でいようね。」

親には何も言いませんでした。

そもそも、母は入会当初その宗教から
「次女のことは心配いりません。次女から気を離すことが重要」
と言われて、素直にわたしから気を離しまくってくれていましたから。。

今になれば、うーん…ですが、当時はわたしのことどころじゃなく大変なだったのに加えて
「〇〇(わたし)はお父さんのお気に入りだから」
という母の思い込みがその状況を後押ししていました。
わたしは穴を埋めていただけなんだけどな。。

母は、衣食住に関して、何でも自分で工夫して手作りするのが好きな人で、(料理、裁縫、日曜大工も剪定もお手のものでした)仕事もしていましたし、依存しなくては生きていけないわけでは無かったのですが、子ども(特に兄)の辛い様子をどうにかしてあげたいと、恥も外聞も捨て切っていたのだと思います。

中学生だった兄に異変が明らかに出始めた時、
父が母に
「お前の教育のせいだ」
という言葉を出したそうです。
兄が調子を崩して救急車と、何台ものパトカーが家にくるような事になった時、疲弊しきった母の口から聞きました。
その酷い言葉は、母に突き刺さってずっと抜けなかったのだと思います。

わたしが中学生になって、兄が発症して家に帰ってくる状況になり、姉が嫁いで行きました。
次の年、父が「男冥利に尽きる」と言って、大きな役を任されたと神戸への単身赴任を引き受けてきました。

わたしは、姉の結婚後の家を
"あぁ。これは一家心中になるだろうな"
と思っていました。
実際、兄の状況は大変でした。
家の中で誰かが死んでもおかしくない、そんなふうにわたしには見えました。
毎日母は料理の後に包丁をタオルで包んで物置に隠していました。

翌年、父が単身赴任の決定の話を誇らしそうにしてきた時、
「この人は、おかしいな。」
と思いました。
今まで散々、違和感を感じるたびに、
"いまのわたしが理解ができなくてもお父さんが言うのだから意味があるのだ"
と思って、自分の感情と思考を否定してきた事には意味がなかったのだと感じました。

その時にもまた頭の中で言葉にはせずに、"絶望"の味だけが喉の奥に広がっていました。

もうわたしが幼かった頃とは形が違っていました。
昔見えていたオレンジ色は遠のいて、わたしの脳みそから眼球にかけて、グレーの薄いフィルムに包まれている感覚でした。
家の中だけじゃなくて、外に出ても同じように見えました。

感情が湧かなくなっていました。
でも、ある日突然じゃなく、緩やかだったのでそんなものかと思っていました。
学校では部活もして他の子と同じように振る舞っていました。
運動部だったのですが、当時は足の感覚も手の感覚も鈍くなっていて、普段でも歩いていると空中に居るかのように地面と足が触れている感覚がしないのですが、思春期とはそんなものなのかなと思っていました。
自分が特別につらいとか苦しいと思えば、「それは甘えだ」と叩かれると思っていました。
実際、家の中に兄がいるので、
"兄は大丈夫じゃない"
がノーマル。
"わたしはいつも大丈夫"
がノーマル。
その形を変えることは恐怖でした。
いま思えば、部活が強いチームではなくてほんとよかったな。。
手に力が入らなくて鉛筆が握れない日も多くなりました。


そんな時に、阪神大震災が起こりました。
母は必死になって父の安否を確認する術を探っていました。3日間父とは連絡が取れませんでした。
あとで父に聞いた話では、命を無くしてしまっていてもおかしくない状況だったようです。
父は、それから何日も経ってから憔悴しきって帰ってきました。
会社は大変な事になっていました。
知り合いの方も大変な事になっていました。

兄は無感情でいるように見えました。
わたしは自分に対する嫌悪感で頭がおかしくなりそうでした。

父と連絡が取れない3日間、父が帰ってこなければいいという考えが浮かんだまま消えませんでした。
"父が帰ってこなければ、わたしの手でわたしと兄が一緒にこの世から居なくなって、それでやっと終わりにできる。母はきっと姉がいるから立ち直れるはず。"
という思いが滲んできて、それが、今まで認識したことがないくらいに明るくて大きな希望に感じられたことに混乱して吐きそうでした。

みんなで生きたい、ではなく、早く終わらせたい と思ってしまっていることを、自分ではじめて自覚しました。

それから何年間も、
「最後、どうにもならなくなった時には、人に危害が及ぶ前にわたしが終わらせられる。わたしが生きている意味はそれなんだろう。」
と、最後の希望のように、誰にも見えないようその気持ちを持ち続けるようになりました。


ここまで読まれた方を不快にさせてしまっていたら申し訳ないと思いながら、それでも出しました。
長い文章をお付き合い頂きありがとうございます。
自己満足でしかないですが、またつづきを綴らせてもらうと思います。
もうタイトルに行き着くまでが本当に長いです。
まるで迷子のようですが、きっと行き着く気がしています。

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