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一緒に居たい人 おわり

わたしはいま、実家から高速で4時間半ほどの距離に、夫と子どもたちと一緒に暮らしています。
義両親の家は車で5分です。

もともとは、結婚後は実家の近くに新居を構えていましたが、(私たち夫婦それぞれの職場が近かったため。)
義両親からの「こちらに帰ってきてほしい。」
という要望に、夫婦で考えて悩んで悩んだ結果、応えることに決めました。

わたしが当時通っていた心療内科の担当医は夫の前で大反対してくれましたが、

「〇〇(わたし)がしんどい思いをするのは申し訳ないと思う。絶対守るようにする。
でも、病気のことばかりを言っていたらこの先どんなチャレンジも出来なくなる。
それではきっと、心から喜べない日が来る。」
と夫はわたしに言いました。

夫はとても柔和ですが、自身の中に生まれた信念は相手が誰でもどういう状況でも曲げないのは知っていたので、夫がこの気持ちを持ったのなら選択肢はひとつでした。

わたしは夫と出会った事で、長い間ひとりで握りしめたままだった "どうしようも無い焦燥感と無力感" を、以前からは想像ができないくらいに軽くしてもらいました。
夫は、わたしの家の困難を全て一緒に解決に向けて考え行動をしてくれました。
何より理解をしてくれました。
それは小さな頃のわたしが何よりも1番に望んで、毎日願っていた事でした。

夫に会うまでに、気づかない間にわたし自身にもぽっかりと大きく空いていた穴を埋める為や、兄の生きる術を教えてくれる誰かがどこかにいるのではないかと、学生時代から、バイト先や、仕事先、知り合いの紹介で会った人と付き合ったりそういう形は取らない時も関係を持ちました。両手では数え足りないくらいでした。

単純にわたしが安心をしたかったし、わたしの家族を救える術を何でもいいから何か教えてほしかった。
家のことを周りには言いたくないけれど、誰かに少しでも聞いてほしい。でも秘密にしておいてほしい。。
仕事では同僚の場合も、取引先の場合もありましたが、仕事ができる人だなと尊敬できる人や、後腐れが無さそうな人を選んでいました。
その先、ずっと一緒にいたいなんて気持ちは、全く持っていませんでした。
"殺人者の妹" になってもおかしくなかったし、わたしが罪を犯してしまうかもしれないと思っていたので、ただただ安心したい為に相手と一緒に過ごすのはわたしの
"take" でしかありません。
でも、"take" だけでいいはずはないという、恐怖に似た感覚を常に持っていたので相手が望む "take" として、関係を持っていました。

何人かは親身になって兄のことを一緒に考えてくれて、福祉の制度のことなど詳しく教えてくれたので、当時はとても助かりました。

でも望んでいたはずの "give" を受け取る度にどうにも苦しくなって、自分から何かを絞り出して相手に渡さなければいけない気持ちになりました。
「結婚したい」と言われても、"自分の幸せなど考えてはいけない。" とストッパーが掛かったままの思考が、悲鳴をあげるようでした。
そんな話が出ると、毎回わたしの方から逃げ出しました。

年齢的な要素もあったかなと思いますが、わたしが夫に会った時は少し自分自身が落ち着いていた時でもあり、夫は義妹から心理的な症状について相談があった事で、「そんな状態やしんどさがあるのだな」と認識していたタイミングでした。
出会ってから、わたしのことも父のことも兄のことも、誰の事も責めずに、ただわたしの全部の話を聞いてくれました。
毎回、わたしは大泣きしながら話を聞いてもらいました。


一時期(3年間程)は義母の強い希望で、同居をしていましたが、その期間、色んな事を感じながら過ごしました。
同居生活では自分の持っていた価値観(主に父親から影響を受けていた部分)では全く通用しなくて、自分の価値観をほぼほぼ全部手放してもう一度組み立てて行く様な感覚でした。
でもいま思えば、それはわたしにとって大事な時間でした。

兄の病気(とされている状況)や、わが家がはまり込んでしまっていた宗教(母にすごい剣幕で非難されましたが結婚を機にわたしが脱退し、何年か経って、他の家族全員も脱退しました。)、
のちに自覚した、わたしが生きづらいと感じてもがいていた "なにか" の形がパニック障害や離人感、躁鬱症状、摂食障害、対人恐怖だったという事。
(当時は自分で状態に名前を付けていなかったので、同じような経験をしている人がたくさんいるのだと知ったのは20歳過ぎてからでした。ひたすらわたしの能力と努力の足りなさだろうと片付けていました。)
紆余曲折はありましたが、色んな体験を経て、今は生きている実感や
"生きていていいんだ、生きたい"
という思いをそのまま感じながら過ごせています。

"アラフォー" はわたしにとって強力なアイテムなのかも、、という気もしています。
"おばちゃん" のわたしでいると、近所の子どもたちと笑い合ったりお節介したり、とってもやり易い。
わが子にも、他の子たちにも、笑わされたり悩まされたり忙しいけど、可愛いと思えます。
そしてそんな自分が好きだなと思います。

実家とは2週間に1度程度連絡を取っていて、みんなと普通に会話をします。

兄は相変わらずつらそうですが、何とか事業所で働いていて、あんなに兄を必死に守ろうとしていた母は歳にしては早く認知症になり、たくさん抱えていたいろんなしがらみや苦難を、全部自分の手から放ったようです。
色んなことを忘れているのはお互いに寂しいけれど、優しさと穏やかさの部分が昔に戻ったような母がいます。
近くに住んでサポートしてくれている姉の家族には感謝しかないです。
(もちろん綺麗事じゃない要素はふんだんにあって、姉と頻繁に連絡を取り合っては頭を抱えることも多いです…)

父を許せない気持ち、でも、優しかったことも忘れられはしないし、必死に頑張ってきた父を肯定したい気持ち、一緒に暮らしていたのに救ってあげられなかった兄への懺悔の気持ち、もっとこっちを見てほしかったという母への気持ち、人が変わったように必死になっている母を見るのが辛かった気持ち。
たくさん花の名前を知っていた母、料理が上手で器用だった母にもっといろんなことを教えてほしかったな。

離れるのは怖かったけど、ものすごく離れたかった家族。
でも、その家族との間に生まれた気持ちを持ち続けながら、わたしは自分の家族を作っています。
たまに傷をえぐられるようでたまらなく辛くなる時もありますが、その当時の気持ちが、わたしに指針を与えてくれているのは確かです。
中でも、
"子どもはとてつもなく優しい、そして強い"
"人は壊れてしまうものだ"
という2つは、消えようもなくわたしのなかに残っています。

色んなことが、自然に流れて行くのだなと漠然と思います。
"因は己にあり" "甘えをなくせ"
という言葉を、母が入れ込んでいた宗教では口癖のように皆が言っていて、それは幼いわたしの耳に強烈に突き刺さって痛かったけど、
「違う違う、そんなに気にしなくていい程度の言葉だよ」と当時の自分に言ってあげたい。

わたしがとっても好きだなぁと思う知り合いの人が "話すは放す" という言葉を教えてくれました。とてもしっくりきました。
己 だけでは流れは作れないと思う。
己に厳しく、律することはとても美点だし大切だけど、誰しも、誰かにもしくは自分に、話したいんだと思う。
話すことで自由になって、そしてまた次のステップに向かえるんじゃないかな。

"己に厳しく" はおのずと、"他人に厳しく"…に流れていきやすい とするならば、それは自分自身とも他人ともどんどん話しづらい状況になってしまう気がする。
そして、言葉が溜まって澱んで重たくなれば、余計に放しづらくなる。。
実際、私も20年以上握りしめていて、ドロドロと重たかった。でも、大切だと思っていた。
今回、note で話して放しました。
またわたしの何かが変わるかな、変わらないかな。。

わたしはわたしの家族がだいすきです。
夫も子どもたちも。2匹の猫たちも。
全然上手く愛せませんが、すきです。

そして、できるなら、私たち家族を気にかけてくれている人たちの事もすきでいたい。
1番最初の投稿で綴ったように、わたしは人付き合いが苦手で干渉されるのも好きじゃない。
でも、人間同士だから欲のぶつかり合いになっても、嫉妬や妬みもあって自然だとも思ってる。
何とか一緒に生きていけるように進めたら、すぐにではなくても、きっと幸せに思える時が来るんじゃないかな。
試行錯誤だけど、下手くそでも付き合っていくしかないし、そうしたいと思う。

育児は育自 とよく聞くけれどわたしもガッツリその言葉が当てはまる。
子どもたちに優しさをもらって、引っ張ってもらうことがなんて多いことか。。
そして、わたしの幸せだった幼少期の思い出も思い出させてくれる。
これから色んなことに向き合うであろう子どもたちが道の先で、
"ずっと一緒に居たい人" に出逢うこと。
"生きていて良かった" とよろこびを知ること。
それはほんとうに、大っきなわたしの願い。
それまではついたり離れたりしながら家の中で親子をやって行くんだろう。

いい歳して、馬鹿みたいに悩んだり泣いたり笑ったりしながら過ごしている日々を、まだ俯瞰して見ることは出来ないけれど。
おばあちゃんになるくらいまでもし生きられていたとしたら、
"優しいおばあちゃん"になっていたいな。
その頃にはもしかしたら、義母の気持ちも分かる様になってるのかもしれないな。分かりたくないって気もするけど、、どうかな。。


ここまで読んでくれた方、長々と個人的なこじれ話を読んでくださってありがとうございました
昨日、お腹の中を吐き出す様に綴って、、今朝はいつもと変わらない朝でした。

眠いなと思いながら味噌汁を作り、ほどほどのテンションで夫と子ども①を送り出し、子ども②が年末にサッカーで骨折していたので整形外科に付き添い、完治と言われてホッとして、またほどほどのテンションで学校に送ってきて、帰ってきてお茶を飲んでいるところです。

特に何も変わらないのかもしれないけど、でもわたしが "かなしみを纏って重くてドロドロしている" と思い込んで抱えてたつもりだったモヤモヤ、note4回分でだいたい書き出せちゃうんだな〜とあっけなく感じて、なんだか軽くなったのは事実です。

これからnoteで何か書いたりするだろうか、は不明ですが、他の方たちの投稿を読むのはとても楽しいので閲覧はしばらくやめられそうにないです^^

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