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純粋意識 ――― 脳ミソと意識と瞑想についての思索。 各種ヨガ・瞑想の共通基盤?

瞑想法には様々なものがありますが、その基礎的なものは共通するのかもと思索することがあります。

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意識・認識作用は脳に依存する

 意識・認識作用は脳ミソによって生み出されます。これについては疑いようがないです。
精神世界、スピの人たちの中には、「脳が意識を生み出す」という主張は唯物的であり自分たちの信仰を傷つけると考えて嫌がる人がいるでしょう。

しかし、これは魂など超越的な存在を否定するものではないです。

たとえ人間の本質が物質的な肉体ではなくて永遠に生きる霊的な魂であろうとも、少なくともこの物質的・物理的世界で物質的な肉体をもって生きている人間の意識の発現は、物質で構成される脳ミソに依存するということです。

なので瞑想体験であろうがなんであろうが、脳の構造・活動の範囲外のことは経験できないことになります。

釈迦牟尼も、もし修行中に暴漢に襲われて頭部を棍棒で殴られて脳に障害が生じたら、修行とか悟りとか智慧どころではなかったと思われます。


大雑把な思考モデル

 どのように意識や認識作用、知性、感情、「自己」、、というのが生じるのかは、現代の科学でもまだまだ謎だらけです。

とりあえずは、今ここでは、「基礎的な意識」を生み出す脳の機能があり、これを土台として、さらに感覚、認識や感情、知的活動、「自己、自我」などを生み出す脳の機能があると考えてみます。


瞑想には、感覚や認識、自己に関する脳の活動を弱め、相対的に「基礎的な意識」に関する活動を高めるような働きがあるのかもしれません。

この「基礎的な意識」というものに関しては、そんな単純な話ではないとは思われますが、脳幹を特徴とする活動が注目されるのかもしれません。

関連note:ヨガ・瞑想における意識ー神経生理の『第三の状態』?


そしてこの「基礎的な意識」というものは、ヨガや瞑想の伝統でしばしば語られている「純粋意識」というものに関係するのかもしれません。
これに関しても「基礎的な意識 = 純粋意識」という単純なものではないかもしれませんが。

私は、この「純粋意識」というのは、瞑想の共通の基盤なのではないかと思索してみたいなと思っているんです。


瞑想に共通する基礎的要素 ――― 純粋意識

 上座部仏教の瞑想であれ、ヨガの瞑想であれ、内丹(仙道)、気功、禅、密教、ゾクチェンであれ、瞑想・瞑想体験は全て「純粋意識」という共通基盤を持つという主張は暴論でしょうか。

これらは瞑想の手順・やり方が違うし、その体験談にも違いが見られます。

しかしコアな部分実践・体験の拠ってたつ土台的なものには共通のものがあるのではないか? 特に深い体験、余計なものがそぎ落ちたような体験の場合には共通のものがあるのではないか?と感じるものがあります。


たとえばゾクチェンは禅や老荘思想の影響があるという説があります。
実際にゾクチェンや老荘思想それぞれについて言語で説明されるものには、似た印象があると感じる人がいるのではないでしょうか。

中国の深い瞑想的実践である内丹(仙道)は老荘思想とも関係が深いのですが、その内丹での瞑想の境地として「清虚」「清浄」といった説明があります。
これについてゾクチェンを連想する人もいると思われます。

またヨガのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーによるTM(超越瞑想)の実践者がゾクチェンについて読むならば、相通じるものがあるのを発見できると思われます。


 こういったことを主張する人は私以外にも多いですが、瞑想に共通する基盤として「純粋意識」のようなものを提案してもいいのではないだろうかと感じています。


初期仏教・上座部の瞑想、ヴィパッサナーの瞑想の場合

 たとえ他の瞑想やヨガに純粋意識なるものが基盤としてあると主張できても、上座部・ヴィパッサナーについてそれを当てはめるのは、おそらく当の上座部の実践者は「一緒にするなよ」と嫌がるかもしれません。

純粋意識、真我意識、梵我一如の体験、、、とかと上座部の教えを一緒にすんじゃねぇというわけです。

たしかにヨガや他のやり方の瞑想はサマディーや、至福の純粋意識や真我意識への没入、梵我一如の体験が説かれる一方で、上座部の場合には、観察(洞察)による「智慧」が重視され説かれています。


 しかし、上座部の修行者も人間なんで、他の人たちと共通する脳ミソを持ってます。
そして瞑想の深まりにおいても共通するものであり、そうすると、実践体系上はどうであれ、余計な意識・認識・思考・感情の働きが削げ落ち、瞑想が深まるなら、そこには純粋意識の働きがあると私は考えてみたくなります。


・実践によって生じる「智慧」の体験・働き

 さすが「智慧の宗教(実践)」と言われ、またそのように自称するだけあって、ヴィパッサナーによって智慧が生じるとされます。

この智慧は、ひょっとすると、大乗仏教のチベット仏教ゲルク派のあんな難解な顕教ばかりをやっているインテリ修行者の考えるホトケの智慧とは違ったものかもしれません。


 上座部の言う智慧というのは、瞑想(ヴィパッサナー)の観察・洞察によって自然に生じるとされます。

 私は上座部に詳しいわけではないので、説明が間違っているかもしれませんが、
瞑想者はヴィパッサナーによって、五蘊(色・受・想・行・識)とくに感受・認識・識別・思考・意識作用である受・想・行・識が無常(五蘊無常)であり、無我(五蘊無我)であり、「我」「私のもの」といったものがどこにもなく、しょせんは縁起によって生じ滅しているだけのものであり、実体のない虚ろなものであり、それゆえ苦しみ(五蘊皆苦、五蘊盛苦)であるというのを、如実に観るとされます。
 そして自ずと苦しみから離れようとし(厭離)、悟り・解脱に向かうとされます(涅槃寂静)。


関連note:仏教における智慧。マインドフルネス瞑想『自由への旅』


さすがにヴィパッサナーは智慧の実践というだけのことはあります。
人類の瞑想の歴史・伝統において花開いた一つの精華と言えるでしょう。


・純粋意識の働きがあってこそなのではないか?

 私としてはヴィパッサナーによる智慧の体験も、やはり純粋意識の働きがあってこそなのではないかと思うところです。

ヴィパッサナーは観察・洞察の瞑想だと気軽に言われますが、このヴィパッサナーにおける観察・洞察というのは、世間でいう観察とか分析とかではないです。
これは深い瞑想体験によるものです。

ヴィパッサナーはサマタの基礎があってこそとも言われています。
サマタによって培われた集中力があってこそとも言われています。


 ヴィパッサナーで必要とされる集中は強い集中と説明されることがあります。

 これについても私の意見は間違っているのかもしれませんが、これは研ぎ澄まされた集中と表現され得るものだとは思いますが、深く安定した瞑想状態による集中であり、―――このような表現は語弊があるだろうし、異論もあるだろうとは思いますが――― 瞑想による変性意識をともなった集中と思われます。

こういった集中状態でないならば、ヴィパッサナーによる智慧の体験は生じないのではないかと私は思っています。

そしてこのような意識状態は純粋意識が関係すると言えるのではというのが私の言いたいことです。

上座部の瞑想も純粋意識が基盤にあるが、上座部の場合はさらに「智慧の体験」が重視されることにおいて特徴があるという意見です。浅はかな見解でしょうか。


全ては意識が創造する?――― 唯識思想、引き寄せの法則

 上座部の瞑想であれ、ゾクチェンやヨガ、その他の瞑想であれ、段階が進んでくると、この物理的な世の中に対する認識が変化するような体験があると述べる人は多いです。

どのようなものかというと、意識、「内的体験」「内的世界」こそが強い実感のあるものであり、外界、我々が五感を通して認識する物理的世界が仮のもの虚ろなものと認識するような体験です。

これについては、いろんな見解があると思いますが、深い瞑想、純粋意識の体験を繰り返すことによる意識状態や認識作用の変化のようなものがあるのかもしれません。


実際に、外界、物理世界として認識するものは、その認識に関しては、結局のところは、神経の働きによって感覚を受容してそして脳ミソの処理によって形成されるものです。
瞑想によって深い意識体験、内的体験を繰り返すと、ここら辺の脳の感受・意識作用について変化が生じるのかもしれません。


 おそらくは、大乗仏教の唯識」の思想の発生・成立根拠はこういった体験にあると思われます。
つまり単なる思想や思弁によってこの大乗仏教の思想が誕生したのではなくて、瞑想による意識体験を根拠にして成立し発展していったということです。

これが極端になると、いわゆる「引き寄せの法則」のオカルトになります。
「全ては自分の意識が創造するんだ」みたいなやつです。「宇宙に欲しいものをオーダー」「意識には波動・波長があってワクワクの波長で現実創造」みたいなやつです。


・極端な見解は妄想なんじゃない?

 意識の持ち方によって「導きの体験」やら「シンクロニシティ」やらが生じるなどの話を私はここで完全否定するつもりはないです。
 ひょっとして意識にはまだよく分かってない不思議な働き・能力があるのかもなと私も思うことはあります。
実際に現実創造の神秘の作用があるのかもしれません。


しかし妄想だろうと思うような極端な見解も、こういった「主観・意識」主義の人たちにはあるように感じます。

自分の意識が現実を創造するなら、「税金を支払わなくてもよい現実」に意識の波長を合わせて、そういった現実を創造して、実際に税金不払い・脱税をやってみろよと言いたくなります。

また、生まれつき視力や聴覚に障害があって、赤信号や横断歩道や走行中の車を認識しない人にとっては、実際に、赤信号や横断歩道や走行中の車は存在しないのでしょうか?


 私は不勉強のために、詳しいことは知らないのですが、中観派と唯識派の間でいろいろと議論があったようです。

唯識思想にある、仏教的ではない、他のインド思想や神秘思想的なところが中観派によって批判されたりしたようです。
また唯識にある主観・意識絶対主義的なところも、中観派によって批判されたようです。
以前、簡単な仏教入門書でそういった内容のものを読んだ印象があります。