人類史上最大の暴君とは誰か
こちらの記事で山本七平さんの『帝王学~「貞観政要」の読み方』から、ほんの一部を引用しました。
毎朝投稿している400ワード程度のシリーズのため、多くは述べていませんが、同書には極めて重要なことが書かれていますので、ここで述べておきます。
現代で最も大きな権力を握っているのは「大衆」
社会に不満を抱く人は多いことでしょう。
多いと言うより、不満や不安を抱いていない人は、せいぜい赤ちゃんくらいかも知れません。
なんでこんな世の中になったのか、政治や経済が原因として取りあげられることがほとんどです。
が、政治にせよ経済にせよ、「人間」が創出しています。
「そうだ。だからトップが悪い」と、政治家や経済界の特定人物を指すことがままあります。
けれど、その「ろくでもない」政財界のトップを選んだのは直接的にせよ間接的にせよ大衆です。突き詰めてしまえば、リーダーとは大衆の意識が投影されている存在ともいえるわけです。
その大衆には、ある認識があります。
権力を握るトップは強く、大衆は常に弱者だ、という認識です。
結局は言うことを聞かねばならない、どうしようもない、という意識。
これは本当なのかどうか、私たちは真剣に考えなければならないと思う。
見出しに書いたように、山本七平は同著のはしがきに、むしろ大衆は最も権力を握っているのではないかと述べています。
だから今や帝王学はすべての人が学ぶべき時ではないか、というのが山本七平の論ですが、至極もっともとしか言いようがないでしょう。
この本が刊行されたのは1983年。日本がバブル景気へとひた走っている時代でした。
その後、インターネットが登場し、一般の中にも使う人が出始め、SNSが誕生した。それがスマートフォンの普及によって、全ての人が発信可能な時代を迎えたのです。
かつて著作権に関する知識は、メディアで記事を書くなど言論活動を行う一部の人間が学んでいればよかったのが、今ではすべての人が必要になりました。が、当然、著作権についてわきまえる人は極めて少なく、気軽な発信で無責任に著作権侵害を起こすようになった。
それどころか、手のひらに乗る小さなコンピューターの操作一つで、誰かを自殺に追い込むことも可能になったのです。
言葉に責任をもたなくてもいいと潜在的に信じている人が大衆だとすれば、山本七平が危惧した約40年前よりも、事態はさらに深刻なものとなっているわけです。
この状況はAIの登場によりさらに複雑化していくでしょう。
大衆化の末路
群集心理についてはル・ボンが『群集心理』でもすでに述べています。
その特徴を次のように述べています。
暴徒化するか、隷属するか。
およそそこにあるのは「熱狂」です。社会とは言うなれば「感情」そのものですから、火に油を注ぐようにして、ある感情的動きがあっと言う間に広がるわけです。
こういう社会を望む人は少ないはずでしょう。
聖徳太子の十七条憲法では、第四条で礼を重んじよと述べています。
礼が失われるから社会は乱れ、ついには崩壊するに至る。
だからまず上に立つ者が礼を示す必要がある。そうすれば下の者もそのあり方を学ぶだろう。
ざっくりいえばこのような内容となっています。
礼とは他者への思いやりであり、教養であり、その人の品性を決めるものです。
「礼に始まり礼に終わる」の言葉を待つまでもなく、日本では武士道のなかでも重んじられ、人としてのたしなみとされました。
江戸時代にはそれが民衆にまで広がったのです。
帝王学と言っていいかどうかはともかく、教養と知性とが大衆にまで浸透し得た、世界的にも珍しい歴史といえるでしょう。
今や、こうした知性と教養とわきまえを身につける人は少数派になったといわざるをえません。それは社会を見れば明らかです。
居心地の悪い、不満の渦巻く社会を生きるのかどうか、それを決めるのはひとりひとりです。
自分一人が変わったところで何になる、と思うのならそれまでです。
せめて自分一人だけでもと思うこともまた自由で、どちらを選ぶことも可能です。
しかし私は思う。
後者を選んだ場合、社会が悪しき大衆化の末路を迎えたとしても、少なくともみずからの人生を肯定することができるだろう、と。
みなさまからいただくサポートは、主に史料や文献の購入、史跡や人物の取材の際に大切に使わせていただき、素晴らしい日本の歴史と伝統の継承に尽力いたします。