見出し画像

優しい先輩になりたい

特に何かあったわけでは無いけど、
なんとなく書きたい夜がある。

「性善説」と「性悪説」という言葉。
この例え話に、最近苦しまされている。

【性善説】人間の本性は基本的に善であるという説。孟子の儒教の教えが由来すると言われています。
【性悪説】性善説に反して荀子が唱えた、人間の本性は欲望に弱いが、後天的な教育や努力により、公共的な善を知り礼儀や考え方を正せるという教えのようです。つまり努力次第で善になれるという事。

https://www.tengudo.jp/blog/karuta-news/3719.html

これを初対面(関係の浅い人)に対して
性善説の場合→最初から良い人に違いないと思って接する
性悪説の場合→もしかして悪い人かもしれないと思って接する

と例えることがあるが、
私の他者に対する考え方は、残念ながら後者なのだと思う。

もう少し前、私はとても人見知りだった。
人見知り、といっても黙り込むタイプでは無くて
初対面の人に気を使って逆によく話してしまうタイプの人見知りだった。

この場合の性悪説、と人見知り、はどこか近いような気がしている。
性善説を唱える人に、人見知りっているのだろうか。
私の周りで「あ、この人は初対面の人を好意的に見れているな」という人は、
人に臆さず話す印象がある。
そして人見知りの人は、心のどこかで『初対面の人が自分にとって、どんな存在か分からない人』だから人見知りしてしまうのでは無いだろうか?

とはいえそれは極論で、人見知り=性悪説 の人ではない。
現に私は人見知りを脱却し、既に「自分は性悪説だと考えている」だけの人になっているからである。

新入社員が入る今時期、私はなんとなく調子を崩してしまう。
新しく関わる人のことを、第一印象から良い人だと思えないからかもしれない。
特に今、大変頭を抱えている。
今年の新入社員は、ちょっとクセが強くて、
少し苦手なタイプなのだ。

苦手だと思ってしまうと、どうしてもダメな部分に目がいってしまう。
それで少し厳しいことを言ってしまって、大いに反省した。
彼はまだ社会人になって2ヶ月なのだ。
前の記事にも似たことを書いたが、
私は無意識に同じ土俵で物事を考えてしまう。
フラットに考えたい。
多分、苦手なタイプというのは相性の関係もあるが、
時間を掛けなければその人の見方が定まらないことも
原因の1つにあると感じる。

優しい先輩でありたい。
だけど同時に、「目を瞑る」だけで良いのか?とも思ってしまう。
上司もいるし、後輩も増えてきた。
真ん中にいる私の役目は何なのか。
私は少し昔までは多分、優しい先輩だったのだ。
今、「注意もしなければいけない立場」になって
優しいだけではいけないことに悩んでいる。

優しい先輩でいることの方が、寧ろ簡単かもしれない。
目を瞑って、気付かないフリをしていたいな、とも思う。
私は一体、どの位置に漂流したら良いのだろう。


新入社員は、一生懸命だけどクセが強い。
だから、ちょっと苦手だ。

と、私は思っていたのだが、後輩の中には
「クセが強いけど一生懸命だ」と言う人がいて、
そういう人は、他者に対していつもフラットだ。
彼らはきっと性善説で生きている。

私はそうやって考えられる後輩を、心底羨ましく思うと同時に
自分の性格の悪さに落ち込む。

誰にでも優しい先輩でいたい。
先輩は、誰にでも優しくあるべきだと思う。

そう思うと私は今、あまり良い先輩では無い。
人をフラットに見るって、かなり難しい。
現在進行形で悩んでいる。
だけどまだ手遅れでも無いなと思う。
私は真ん中という言葉を、もう少し真剣に考えてみなければいけない。

よろしければサポートをお願い致します!頂いたサポートに関しましては活動を続ける為の熱意と向上心に使わせて頂きます!