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友達がいる、というだけで最近は本当に嬉しく思える

ここ最近、友達についてよく考える。

もっと友達が欲しいな。と強く思うし、反面、大人になって友達を増やすことがとても難しいことだとも思う。
そもそも大人というものは、例え友達が新しく出来たとしても、どちらかの環境が変わってしまえば会う機会が減ったり、物理的に会えなくなってしまったりする。
生まれた時からずーっと聴き続けている「と・も・だ・ち」という響きが、こんなに難しく悩む必要性のあるものだとは随分大きくなるまで気づかなかった。

『幼い頃ほど簡単なのに、大人になると難しくなるものってなあ〜んだ?』
友達づくりである。

だからこそ、今まで仲良くしてくれている友達はとても大切だ。
大切にしなければいけない。
しかしこんな矛盾のような言葉も聞く。
「大人になったら、仲良くする人を選ぶべきだ」と。

”自分を大切にしてくれる人と、仲良くするべきだ。”
それは至極真っ当なセリフである。

さて前置きが随分長くなってしまったが、
私には中学生の頃から仲良くしてくれていた友達がいる。
過去進行形になってしまっているが、今回の話はそれが一番近いニュアンスなので
敢えてそう言った。正しくは無いので、この記事を読んだ後にニュアンスで感じて貰えれば嬉しい。

その友達は趣味の繋がりで仲良くなった子で、
大人になって住む場所が変わってからも、細々とやりとりを続けていた。

コロナ禍を挟み、それから規制も緩くなった頃、
私は彼女に「久々に会おう」とLINEをした。
彼女は「最近仕事が忙しくて」と言った。
会うのは諦めて、一度連絡は途絶えた。

それからまた暫くして、私が帰省をするタイミングで再び連絡を取った。
彼女は遊べると言った。
しかしまた、直前になって会うのが難しくなってしまったと断りの連絡が来た。
一度連絡は途絶えた。

その時の状況を一言で表せば『おざなり』である。
私はその時「彼女の生活の中で、私はもう必要性が無いんだろうなあ」と悟った。
重たく感じるかもしれないが、先述した『自分を大切にしてくれる人と仲良くするべき』という言葉に従うならば、見切りを付けなければいけないと思ったのだ。

何度も一方的に誘うのもお互い気を使う。
私はそれから彼女を遊びに誘うのを辞めていた。
それが、『仲良くしてくれていた』友達の話である。

それから数ヶ月経って、私はまた彼女のことを思い出した。
そして、友達を選ぶという言葉について考えた。
本当に、中学生という実に幼い頃から仲良くしてくれている友達と
こんなに呆気なく疎遠になってしまって良いのだろうか。
それは、『友達を選んだ』末に存在する満足感には値しない気がした。

私は最後にもう一度遊びに誘ってみようと思った。
今度断られたら、自分からは誘うのを辞めようと思った。
彼女は誘いを受けてくれた。
私は年末の休みを利用して、その友人と会うことができた。

結局私たちは何年も会ってないだなんて信じられないくらいに話が盛り上がり、心地よい時間を過ごすことができた。
会話の中で彼女は、
「コロナ禍で家に引きこもるようになってから体質までそうなっちゃって、なかなか人と会えなかった」と話した。
私はその気持ちがとても分かる。
もっと若い頃、全く同じマインドを持っていたからだ。

私はその時心から、もう一度連絡をして良かったと思った。
もう一度連絡をしてみたのは気まぐれだったかもしれないけれど、角度を変えれば直感だった。
彼女と会う前、私は彼女に「必要性が無くなった」、もっと言えば見切られたと思い込んでいた。
しかし彼女の気持ちは全く違うもので、危うくあの至極真っ当に聞こえる言葉に騙されて大事な友人と疎遠になってしまうところだったのだ。

”自分を大切にしてくれる人と、仲良くするべきだ。”
それは至極真っ当なセリフ、っぽい。
しかし大切にしてくれる人を選ぶのは、とても難しい。
友達は心と心で繋ぐ関係性だからだ。
心はどちらか(自分の)のものしか見ることができない。
ということは、『友達を選ぶ』という言葉はもっと繊細に扱うべきなのだ。

友達とは歳を取るにつれて、いや最早幼い頃から、重く大事な存在であることは揺らがない。

多分『友達を選ぶ』という表現は間違っていて、
本当に仲良くできる友人とは、自然と縁が切れないでいる。
暫く連絡していなかったとしても、ふとした時にまた会ったり話したりするのだ。

そういう友達が新しく欲しいな、と思う。
だけど、今そんな友達がいるだけで、私は既に幸せなんだと思う。

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