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かつて天才だった俺たちへ


creepynuts に毒されている。


人生でお金を払って行った音楽ライブはcreepynuts だけだし、曲を購入したのも然りである。
「あ、ライブやるの?買おう」なんて勢いでスマホを開く。
惜しみなくお金を使う程好きなのだ。
この毒は栄養となり、必然的に身体中を巡っている。

私がcreepynuts を知ったのは約四年前、何を隠そうオードリーがきっかけであるし、それまではヒップホップのヒの字も分からない人間だった。

「好きな人が好きなものだから好き」という感覚はあると思うけど、入り口はどうであれ、今の私にとってcreepynuts は、紛れもなく私の一部として浸透している。

-語彙の多さ、言葉の掛け方、意味と意味の繋がり、それから韻を踏んだり。-

ヒップホップとは実に奥深く、それから文学部の人間がハマって然るべきカルチャーの筈なのだ。実際大学時代、私の周りにヒップホップ好きは何人か居た。


だけど勿体無いなと思う。
日本のヒップホップはこんなにも日本語に密接していて、もっともっと日本の文化としても浸透して良いはずなのに、つい疎遠されがちなのだ。

ヒップホップはリアルを歌う。
だから思うに、共感性はとても大切な部分になる。

日本語が好きないわゆる『文学部タイプ』は、どうしても「薬」や「犯罪」などの悪事と懸け離れたタイプが多く、深く追求するまでのハードルが高い。
聞いたけどあんまり…というよりは、聞くまでの壁が厚いのだ。

そして私たちの高く厚い壁をぶち破ったのが、何を隠そうcreepynutsである。
私が彼らを知った頃、creepynuts は「ヒップホップというジャンルにまとめるべきではない」なんて皮肉を言われてたりしていた時期で、もしかするとその界隈のファンたちには「ヒップホップが変わってしまう」という危機感を抱かれていた時期なのかもしれない。
その頃私はまだ、そのジャンルを知っていることに対して若干の抵抗すらあった。
「え、ヒップホップが好きなの?」といったリアクションの方が多かった。

それでも私が離れずにファンでいれたのは、紛れもなく彼らの人間性のおかげであった。


上手くいかない人生
自分のだらしない部分
生きるのが下手な人間性。

誰しも心に抱いている人間の生々しい部分をポップに、時には熱っぽく歌うその曲に、その沼に私は文字通り「ハマった」のである。

そして今日。
彼らの武道館ライブを見た。


ご時世もあってオンラインを選択したが、
それでも充分楽しめるようライブを作り込んでくれていた。

私は敢えてこの言い回しをさせて貰うと「古参」でも「ニワカ」でも無いような、中途半端な歴を持つファンではあるが、
それでもライブのチケットをギリギリまで売っていた時期や
ラジオを始める前の2人を知っている以上、
ここまで来たのかと感慨深いものがあった。

だけどそのその感慨深さの中には、良かったねというファン心だけでは収まらない熱い気持ちが混ざっている。

creepynuts は「こちら側の人間」のヒーローなのだ。

上手く生きていけない人間代表として頑張っている姿に、心から応援出来るのである。
それは「私の分まで頑張ってくれ!」という気持ちだったり「私ももっも頑張れそうな気がする!」という気持ちだったり。

松永さんが流した涙は、とても人間らしくて「似合っているな」と思った。
きっと苦労と喜びと、それからわたしには分からない沢山の感情が含まれていのだと思う。

そしてその本気の涙を見たとき、
「私ももう少し上を目指しても良いんじゃないか?」と、リアルな心が動かされたのだ。
少なくても熱冷めぬままにnote に書いているくらいには、私の心はその涙に感化されている。

人間らしい彼らの曲はいつもリアルなおかげで、
「なんかcreepynuts の曲変わっちゃったね」と思う残念感が無い。
きっと、意識はしていないけれど、応援している私たちが彼らと同じように日々成長しているからだ。
そうやって自分を見つめると、ますますcreepynutsが好きになる。

彼らのお陰で、と言うべきかはわからないが、
これからヒップホップはきっと広い世の中に知れ渡る文化となる。
私はこれからも、creepynuts の心の変化を、リアルな音楽に乗せて共鳴し続けるのだ。

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