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東京サルベージ【第40回◾️影武者】


「ピョートル、俺な。事務所とは更新しないこととしたよ」
学芸大学のビストロでKさんはそう切り出した。

私は一時期ライターのマネジメントをしてくれる事務所(仮に「Z」としておく)に所属していたことがあった。
Kさんはそのモデル部門に所属しており、事務所との縁が切れた後も、たまにお互いの近況を報告しあっていた。
彼は、私よりずいぶんと年配だったが、都内の某シティホテルで開催された「Z」の忘年会に出た際に、隣の席にたまたま座ったのが縁だった。かれこれもう15年の付き合いになる。

「俺、先生の雑誌の人生相談を高校生の頃、愛読してました!」
それは有名な作家や芸能人もちらほらいる忘年会で、愛読していたハードボイルド作家(Kさんのことである)と隣り合わせて緊張している私に、彼は茶目っぽく微笑んだ。
「おい、若いの。俺の作品でどれが好きだ?」と問われ、私は興奮気味に彼の作品をいくつかあげた。

「ここだけの話な、俺は“外の人”なんだよ」と彼は小声で言った。
「だから、俺に作品のことを聞くんじゃねえぞ」

 ポカーンとする私に、彼はウインクをしてビールをついでくれた。「外の人」が、着ぐるみの「中の人」の反対という意味だとわかるまでに暫くの時間を要した。
マネジメント事務所の「モデル部門」といっても、所謂ファッションモデルのようなものとは一線を画しており、Kさんが専従していたのは、「Z」では「シャドウ」と呼ばれていた、いわば影武者稼業だった。
大きな声では言えないが、我々ライターの仕事では、芸能人や政治家、所謂有名人が執筆したことになっている本のゴーストライターを請け負うようなことはあり、「Z」でもそういった仕事があっせんされることがあった。まんまといえばまんまだが「ゴースト」と呼ばれていた。

「シャドウ」は全く真逆の発送で生まれた業態だった。Kさんは35年間、ある売れっ子作家のビジュアル担当として、カバーの帯や雑誌の人生相談の写真に登場し、文学賞の選考委員会に出席したりしていたのだ。

「薄毛の小男が描く壮大なハードボイルドの世界観には傭兵あがりの俺のような体躯が望まれたのさ」

Kさんが語るところによれば、「Z」はその系譜をたどると、戦国時代の甲州武田家のお抱えにさかのぼるという。「草のもの」と呼ばれる忍びや「影武者」の派遣業をもともとは生業としていたのだ。(江戸時代には、隠密や目明しといった人々の派遣業を取り扱っていたそうだ。当時は取りつぶしを免れさせるための死んだ大名の替え玉が一番高額な派遣だったらしい)
タレントのマネジメントや、私が所属していたライターのマネジメント部門については、文明開化以降に派生した後発の部門だそうで、Kさんに言わせれば「元はといえば俺みたいな仕事がこの事務所では本流にあたるんだよ」ということだった。

「それで、何で事務所との契約を更新しないんですか?」
私が聞くと「・・・ヤツが筆を折るのさ」とKさんは寂しそう微笑んだ。
「雄々しくあることに疲れたんだそうだ」
もちろん、体の方じゃねえ、心の方さ、と彼は付け加えた。
「無理もない。ヤツも七十五歳になる。そしてそれは俺も同じさ」
後期高齢者にハードボイルドもくそもねえよな、干上がっちまうと彼は自嘲気味に呟いた。

「これから、田舎にでも戻って親が遺した畑でも耕すとするよ」
今日は奢らせてくださいと言うと、俺の人生相談の薫陶を受けた小僧の奢りはウケねえよと豪快に笑った。私の鼻腔に思春期の頃の部室の匂いがかすかによみがえった。

「おい、悩める子羊どもよ!」
それが彼のというか、中の人の人生相談コーナーの冒頭の決め台詞だった。
ヘミングウェイを思わせる豪快な風貌の写真とともにティ―ンエイジャー(男子)の悶々とした悩みを豪快にぶったぎっていた。(中の人が。)
だが、若僧のボクの心に響いたのは中の人の言葉ではなく、Kさん(外の人)の顔貌や体躯の説得力だったように思う。

「なあ、ピョートル。ときどき思うんだ。俺がヤツの影武者だったんじゃなくて、ヤツが俺のゴーストライターだったってんじゃないかってね」

別れ際につぶやいたKさんの背に(悪いけど、それはないっすよ)の言葉を飲み込んだ。
傭兵あがりの雄大な体躯は、足取りもしっかりしていたが、少し背が曲がり始めていた。
時間はもう深夜の12時を超えており、日付が変わっていた。今日はもう、エイプリルフールか、と寂しく私はひとりごちた。
鬱陶しい新年度の始まり、そんな妄想をしてみた。

取材、執筆のためにつかわせていただきます。