孫の手くん
いつも背中を掻いてくれる手がある。「あ、背中がかゆい」と思うとき、別にそうでもないとき、いいタイミングのときもそうでないときもあるけれど、その手がいつも私の背中を掻いてくれる。
振り返っても誰もいない。だから私はその手も、手の主も見たことがない。けれどその感触はたしかに人の手だ。そう大きくはない。女性か子供の手なのではないか。
誰の手か、それとも「誰」ではないモノの手なのか。わからないのでちょっと怖い。
でもその掻き方にはどこかやさしさと、そして少しの茶目っ気のようなものが感じられて、その手が悪いものだとは私には思えなかった。
それに私は体が硬くて背中に手が届かないので、背中が痒くて困っているときには大いに助かる。
だから私はその手のことを、親愛の情を込めて「孫の手くん」と呼ぶようになった。
けれど、孫の手くんが現われたのはほんの少しの間だけで、ある時期以降ぱったりと姿を消してしまった。まるで私の背中を掻くことに飽きてしまったように。
思えば現われたときも突然だったから、いなくなるときもそんなものなのだろう。
背中が痒くて困っているとき、あの指先の心地よい感触を思い出して少し寂しい気持ちになることはあったが、それもじき、夏の通り雨のように忘れてしまった。
再びそのことを思い出したのは、六十年ほどもあとのことだ。
下の娘の小学生になる息子が、夏休みの自由研究で小さなタイムマシンを作った。それは子供用の学習教材で、小さいながらも実際に時空を越える機能を持った立派なものだった。
ある日、完成したタイムマシンを自慢げに抱えて遊びに来た孫が、
「昔のおじいちゃんにイタズラしちゃった」
と、瞳を輝かせて教えてくれた。何のことかと思えば、その子供の手が通るのがやっとの小さなタイムマシンを使って、過去の時空間にいる私の背中にこっそり触れたものらしい。
それを聞いたとき、六十年前に起きた不思議な出来事が、走馬灯のように甦ってきた。
と思ったら、それは実際に走馬灯で、私の心臓はそのとき突然止まったのだった。
「おじいちゃん、どうしたの?」
倒れた私の背中に触れる小さな指の感触を懐かしく感じながら、私は安らかな気持ちで最後の眠りに就いた。
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