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仏教を学んで得た、浅い考え〜「裏切り」と「信仰」

南無阿弥陀仏。
私は最近仏教を少しずつ学んでいる。
宗派を固定しているわけではないが、浄土真宗の教えと触れることが多いように思う。

今回筆を取ったのは、今この瞬間に自分が到達した「浅い考え」を形にして、それを自分と、これを参考にしてくれる誰かがいるならその人のためになれば良いと思ったからだ。

仏教の上澄みと「裏切り」

自身の考えを記述する前に、その前提となる仏教と、その教えの(私が知っている浅い内容の更に)上澄みだけを書き留めておく。

仏教は約2600年前、インドに生まれたシッダールダ太子(お釈迦様)が到達した悟りと、その教えの伝播から始まり、今に至っている。
2600年の中でもお釈迦様の教えのコアは一切変わらない。
その深い教えを心の底から受け入れるための手法や翻訳が様々な僧侶によって考案され、多数の宗派として現存している。つまり仏教の芯は2000年以上変わっていないのだ。

仏教とは、この世の真理を解き明かして説明した教えである。他の宗教のような「神話」などにはほとんど依存せず、理性と観察をもって教えを形作るところが特筆すべき点だろう。俗っぽく分類するなら「理系」のような体系を持っているとも言える。その深い洞察への感動が、私が仏教を学ぶ一番の動機である。

さて、お釈迦様の話されたお話から、今回の話に必要な部分だけ抜き出す。

  • 一切皆苦…この世は生まれてから死ぬまで「苦しみ」=「ままならないこと」に満ちている。

  • 四苦八苦…その苦しみを8つに分類したもの。特に四苦は全人類が受ける。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病になる苦しみ、死ぬ苦しみ。

  • 仏教の目的…人間は幸せになるために生きている。しかし、それは欲を満たすことでは一時しのぎの幸福しかない。一時しのぎを続けるだけでは、少なくとも死ぬ瞬間に全てに裏切られる。裏切られることのない幸福を得るには、死を見つめて受け入れる必要があり、そのために仏教がある。

今回話したいのは、この世にあるものは必ず自分を裏切ることになる、という点だ。
この世にあるあらゆる人と物は、その人にそんな意図がなかったとしても、必ず自分を裏切る。なぜか。

私たちが死ぬ瞬間に、この世にある全てのものは置いていかねばならないからだ。
そして私達は必ず死ぬ。過去にもその例外は無い。
だから、いくら金を稼いでも死ぬ瞬間には意味がない。愛する人と同時に死ねることは無い。もし同時に死に至ったとしても、死後に交流することはない(少なくとも現世では)。
生きている間に得たあらゆる人・物は自分を裏切っていく。
冷徹で残酷だが、その事実を心の底から受け入れることが幸福の第一歩なのだろう。

裏切りを受け入れた先に信仰がある


これを受け入れると、世の中の見方が変わる。
まず、あらゆる物は死後に持っていけないのだから、必要以上に物を持つ意味を感じなくなる。
執着が減ることはままならないことが減ることに繋がる。つまり苦しみが減る。
そして次に、個人的にはこれが一番大きい。この世にあるものは自分を裏切るが、それだけに「この世に無いものを信じる気持ち」を強く持つことができる。
この世のものは確実に自分から引き離されるが、この世にないものはその限りでは無い。少なくとも、自分を裏切ったことを観測する手段が無い。存在を証明する手段もない。証明できないから「いない」のではない。証明できないからこそ、自由に「居る」と信じてよいのだ。「この自分を無条件で救ってくれる、とてつもなく都合の良い大いなる力」がこの世でないどこかに存在するかもしれない。
そしてそれは居ることも証明できず、観測もできないが、それだけに死ぬ瞬間に自分を裏切ることもない。裏切ったことを観測する手段がない。

その「都合の良い大いなる力」が死ぬ瞬間、そして死後も寄り添い、共に居てくれる。
それを信じて信じ抜くほど、死に対する苦しみ、恐怖を減らし、安心できるようになる。
これが宗教の「信仰」である。
浄土真宗などの宗派であればその大いなる力は「阿弥陀仏」と呼ばれるだろうし、他の宗教なら神様や天使などの呼ばれ方もするだろう。

この世に無い、都合の良い大いなる力を信じ、それが生まれた時から死ぬ瞬間、そして死後まで共にいてくれると信じる心こそが、決して裏切らない安心と幸福をもたらすのではないか。

この世に無い大いなる力を信じると、それに失礼のないように考えを改める気持ちも湧き上がるかもしれない。
それが例えば親切心に繋がったり、悪い行動を抑え、良き行動へ繋がることもあるだろう。例えばお天道様がこれをみたらどう思うか、という視点を持つことで、高い自制心が生まれる。この「お天道様」も「都合の良い大いなる力」だ。

「信仰」という人間の偉大なる知恵

私達は「どう生きるか」にこだわりすぎて、「死ぬ瞬間」に対して見て見ぬふりをしがちだ。
誰だって死は怖い。自分がどうなるかもわからず、死後を保証するものも、観測する方法もなく、それでいて必ず一人で旅立つ必要がある。
しかも、旅立つ瞬間は明日どころかこの瞬間かもしれない。
死に対するくらい心を明るく照らすために仏教があり、救いと幸福を求めるために信仰がある。

宗教を深く信じるには、宗教に対する勉強や熱意が必要ではあるが、それでも信じるだけならばこの一瞬からでも始められる。それで少しでも世の中で受ける苦しみを減らせるならば、ぜひ信仰を試してみてほしい。
仏教でなくても良い。信仰は人間の偉大なる知恵である。

ただし、他人に危害を加えるような信仰は避けるように。


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