「理解したい」が生む「理解できない」という苦しみのための住み分け論

前回の走り書きから、再構築して住み分けについて考える。

「理解したい」「理解されたい」という欲求を抱えて生きる。
その程度や「したい•されたい」のバランスは人それぞれ違うにしても、すべての人が持っている欲求だと思っている。
それはありのままの自分、素のあなた、凝り固まった価値観や偏見、癖や趣味趣向その他いろいろと、表面化していたり、内在化していたり、自覚があったりなかったり。

ただその欲求は「理解されない」「理解できない」という苦しみを伴う。それは「理解したい・されたい」気持ちが大きければ大きいほどカウンターのように大きく返ってくる。その苦しみが厭で気持ちを小さく小さく押し込めて生きてみても、それはそれで心が焦燥していくので、その防衛的選択をあえて取らない道を選びたい。

32歳という年齢を迎えたときに決めた「自分の中途半端を愛おしむ」という目標は安定しつつあって、自分の中の両極の特性や、価値観からは少しずつグラデーションを感じられるようになってきた。
白と黒、灰色、白よりの灰色、黒よりの灰色、鼠色、グレー、#808080、薄墨色、鉛色、月白、漆黒…
自分の中にグラデーションを見出すと、他人の色を自分の中にも見出せる機会が増える。故に理解できることが増えていく。大人だから子供の事情が分からないではなくて、大人でも子供でもあるからそれぞれの事情を理解できるようになる。それは10代、20代という時の経過を捨てずに抱えて歩くことにも近い。ただそれに伴って体は重くなり、身動きが鈍くなるのは事実で、33歳に立てる目標はそこから生まれるのかもしれないとこの文章を書きながら考えている。
その上でまだ見ぬ40代50代果ては90代の感覚をどう理解したらいいかという課題にもぶち当たる。幸運なことに僕にはそれぞれの世代の友人がいて、話をする機会があるのでまずは話をして、想像してみる。そして理解をしたい。ただそこには壁がある。理解が出来たつもりにはなるけど、理解できた気はしない。それどころか「全く理解できない」時もある。困ったものだ。理解できない事実が理解したい気持ちにカウンターを打込んでくる。この苦しみをどうしたら解消できるか、どうしたら防げるか、冒頭で書いた理解したい気持ちを制限する防衛的選択ではなく、理解したい気持ちを残したまま前へ進む道を模索したい。

解決の鍵は「距離感」と「期待」にあると思う。精神的に未熟な僕はどうしても距離感の近いものに「理解できる姿であってほしい」と期待をしてしまう。それはある種のコントロール願望であり、ままならないことを受容できない弱さでもある。この問題はまた別角度から考えるとして、その未熟さ故に抱える「期待」を軽減するためには「距離感」が大事だと感じている。「精神的な距離感」「物理的な距離感」どちらかではなく、どちらも。それは極端に離れて孤立して生きるということではなく、「理解できない」に対して「期待」しなくて済む程度の距離をとる。「理解できる」に対して「期待」しすぎない程度の距離を縮める。居心地がいいと感じる「距離感」を模索し、保ち続けることが大切なのだと思う。

それぞれの人のそれぞれにとって居心地のいい距離感の総和が心地のいい「住み分け」を編み出していく。この「住み分け」が「理解したい・できない」苦しみを解消する一つの答えだと思っている。

そしてその住み分けは古来の住み分けとは違った形にアップデートし、新しい住み分けとして再認識する必要もある。古来からある住み分けは物理的事情により発生し、行き来の不自由さ故に「同調圧力」や「没個性感」が生じやすく、理解できない苦しみとはまた違った苦しみが発生する。これからの住み分けはそのような古来の住み分けとはまた違った新しい住み分けをしていく必要がある。それは様々なレイヤー(層)を行き来できる住み分けだ。

趣味趣向の住み分け、価値観の住み分け、性や仕事、年齢、精神性思想や土地、宗教など様々な住み分けのレイヤーを自由に行き来できる必要がある。それは「○○が趣味の人はこういう価値観を持ってこそだ」とか「男はこういう仕事、女はこういう趣向」という紐づけありきの固定化された住み分けからの脱却、住み分けレイヤーを行き来する自由への許容、自分の居心地のいい住み分けの模索。こういった行動や思考の先に「理解したい・できない」苦しみの解消があるのではないかと思う。

ただ懸念しておかないといけないのは、極端な住み分けはグラデーションを消滅させ「分断」を生む可能性がある。「分断」の先には争いが生まれるので、それは避ける必要がある。「分断を避け、居心地のいい住み分けをする」これが到達目標だとして、その分断をどうしたら避けられるか。それが課題になってくる。
ここにまだ明確に答えを持っているわけではないが、一つ言えるのは「認める」ことだと思っている。
まずは理解できないものがあることを「認める」そしてその理解できないものを「認める」それはつまり、理解できないものの背景や成り立ちを「認める」ことになる。
理解できないものを無理して理解するのではなく、理解できないものを認めて距離を保つということ。

「認める」ことだけが解決への絶対の答えだとは思わないが、まず実現可能なアクションとして目標にするべきは「認める」ことでいいと思う。そして毎回ここに行きついてしまうのがなんだか「またか」といった印象ではあるのだけれども、相手を「認める」第一歩は「相手の幸せを祈る」ことなのだと思う。もうこれは自分のすべての行動や思考のベースだから仕方がない。理解できるできないは関係なく、すべての人の幸せを祈ること、それが居心地のいい距離を保ち、許容の幅を増やし、過度な期待を落ち着かせる、大きなきっかけになるのではないかと思う。

大きなきっかけの先にある「分断を避け、居心地のいい住み分け」を目指して
理解し合う喜びと理解し合えないやるせなさを抱えながら。

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