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社会から、自分から、逃げるようにたどり着いた海外にいつの間にか救われていた話

写真というのは強烈なもので、前回の記事を書くために、過去に撮った写真を見返していたら、あの時感じていた期待感や孤独感、興奮や不安、喜び、辛さといろいろな記憶が蘇ってくる。僕の海外は2010年の高校のインドから始まり、2017年のインドまでで、それ以降、僕の赤いパスポートは机の引き出しの中で眠っている。長野に引っ越してきたことやコロナの大流行の影響もあるが、海外に行く必要がなくなったという要因が大きい。あの頃の僕が何をもって海外を必要としていたのか。おいしい食べ物や貴重な体験、息をのむような綺麗な景色が見られた背景に、僕が海外に何を求め、何から逃げていたのかをまとめておきたい.

当時、僕の中で海外というのものは自分を構成する大切な要素だった。初めて海外に行った2010年当時、僕はまだ高校三年生で、今よりもっと社会との調整に手こずり、動くたびに大きなエラーを起こし、エラーを起こしては殻にこもる日々を繰り返していた。感覚的に言えばずっと社会からバツ印をつけられているような気持ちだった。今でも社会との摩擦にぐるぐるしてはいるけれども、今と当時が大きく違うのは社会からの評価をもとに自分の価値を決めていて、社会に突き付けられるバツ印から自分を防衛する術を持ち合わせていなかった。そこに降って湧いた「インドに行く」という意思、今振り返ってみてもなぜそんなことを思ったのか、そもそもなぜインドだったのかはわからないのだけれども、「情報」の授業の最中、課題を早々に終わらせて、航空券の値段やビザの取り方を夢中で調べていたことを覚えている。俗にいう「インドに呼ばれている」状態に入った僕はバイトで貯めたお金とおばあちゃんからもらった軍資金をトラベラーズチェックという遺物に変えてバツ印から逃げ出した。そしてインドから帰国した僕は「何者でもない自分」から「インドに行く人」「海外へ写真を撮りに行く人」というアイデンティティを獲得した。しかし次第にそれに縛られ、気がつけば「海外に行きたい」は「海外に行かなくてはならない」という形にゆがんでいた。どのくらい海外アイデンティティに縛られていたかというと、海外へ行く前は旅ブルーとでもいえるような憂鬱状態に入るほどだった。それでも「海外へ行かなくては」と思うほどに当時の僕は「何者かになりたい」という欲求を抱え、「ありのままの自分」に価値を感じられなかった。そしてそれは最終的に「海外で一年間暮らす」という目標になり、2015年のノルウェー暮らしにつながっていく。

人生で初めて知らない人に声をかけて、撮った初めてのポートレート

なぜそこまでインドおよび、海外が必要だったのか。当時の僕は今以上に自尊心が高く、被害的な妄想傾向や誇大妄想によって作られた自己認知、反動で陥る自虐的孤独感、自己顕示欲の肥大化、承認欲求の暴走など思春期に抱えるありとあらゆるトガリを抱えて生きていた。そしてそのトガリが尖りに尖っていた。そのトガリは関わる人すべてに向き、関わる人すべてから向けられていると思っていた。故に人と関われば関わるほどに人を傷つけ、人に傷ついていた。そんな剣山状態、妄想的針の筵状態から逃げるように、救われたい一心で伸ばした指先で引っ掛けるようにして獲得したのが海外だった。きっと海外に行くことで救われたかったんだと思う。

こんな自分でも海外へ行くことで「何者か」になれる気がしていた。そして海外へ行けば避けようとしてもトラブルが発生する。そのトラブルを抱えて困っていたら、いろいろな人が助けてくれた。当時は気が付かなかったが実はそれが本当の「救い」だった。差し伸べてもらった救いの手は今でも鮮明に覚えている。
初めてのインドでツアー会社に騙され、お金をほとんど巻き上げられて一日一食で暮らしていると売店のお兄ちゃんが話しかけてくれて、ビスケットと水をくれて話を聞いてくれた。翌年からは家に泊めてくれるようになった。

すべてが敵に見えたインドで初めて優しくしてくれたインド人の友人
気が付けば家族の中に

春節の中国で訪れた貴州省の小さな村。バスで行けるところまで行ってみようとたどり着いたその村を春節祭を楽しみながらふらふらしていると、バスはなくなり、宿も春節のため満杯になってしまっていた。鞄を預かってくれていたバイク駐輪場のおじさんに相談すると「家に泊めてやるよ」と言ってくれた。しかし喜びも束の間、電話越しで奥さんに怒られている。電話を切った後に「奥さんにダメだといわれてしまった」と申し訳なさそうに伝えてくるおじさん。そのあとおじさんが方々に当たってくれ、車で違う村の宿に案内してくれた。

おじさんのこどもたち

北極での生活の最中半年以上家に居候させてくれた家族。当初は一、二か月の滞在で南下しようと思っていたので、北極の寒さを超えられる装備を持っていない僕に暖かいジャケットやトナカイの毛皮の靴を準備してくれた。トナカイの仕事をいろいろとやらせてもらい、終には誕生日にはホームパーティまで開催してくれた。

パーティ前に髪を切ってもらう
ホームパーティに集まってくれた友人

そんな北極での暮らしを含めたノルウェーでの暮らしは、最初の数か月以外は人の家を渡り歩き、居候させてもらえたので、ビザが切れるまで滞在することができた。帰国したときに貯金はほぼ底をついていたので、家賃を払っていたら半年も待たずに日本に帰ってきていただろう。

他にもガンジス河を泳いだ次の日に体調を崩した僕を病院まで連れて行ってくれた友人や、ソチの宿からオリンピック公園まで歩いていたら「歩く距離じゃないから乗っていけ」と車に乗せてくれたお兄さん。鉄道で一緒にご飯を食べたというだけで、里帰りに付き添わせてくれた大学生。そしてカメラを構えると笑って写真を撮らせてくれた数えられないほどの人たち。

誰も知らない海外だからこそ、ありのままの自分でいられた。何も持っていない。英語も現地の言葉もしゃべれない。力もない、鬱屈した感情、ゆがんだ認知や劣等感を抱えたありのままの自分。そんな僕に「ただ困っているから」という理由で差し伸べられた数多の手があって、その手に救われて今がある。今でも自己肯定感が高い訳ではない。ただたくさんの人に救ってもった僕はいつの間にかありのままの自分を肯定しはじめていた。こうして剣山は摩耗し丸くなり、(不完全ながらも)妄想的針の筵から抜け出した今、海外は救われるために行かなければならない場所ではなく、青みを帯びたあの頃の自分が居た記録として想いを馳せる場所でいいと思えるほどに必要性を失っている。

そしてなにかができるから救ってもらえたのではなく、ただそこにいたからという理由だけで救われた感覚が僕の根底には流れている。


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